鬼才・船瀬俊介が展開する「波動医学」シリーズネクストステージへ。強大なる二つの闇を暴き、さらに解決案をしめした改革の書。日本人の「心」と「魂」と「体」を「波動医学」で救う!
(目次より)
プロローグ 「神」とは何か?「生命」とは何か? 「宗教」とは何か?
第1章 「宗教」よ、腐敗、衰退……から復活せよ!
第2章 仏教・神道よ、病み苦しむ衆生を救え!
第3章 「諸行無常」は「波動エネルギー」である
第4章 なぜ、苦しいのか? なぜ、病むのか?
第5章 「波動」が宗教・医療・社会を変える!
第6章 「音響免疫療法」による宗教改革とは?
エピローグ 「宗教」こそ「生命」の「科学」である
プロローグ
「神」は「宇宙」の「存在」と「法則」である
●「神」は「宇宙」である
「神」とは何でしょう? それは、「宇宙」です。
「神」とは、「宇宙」の「実在」であり「法理」なのです。
わたしたちは、なぜ、いま、ここにいるのでしょう? わたしたちを、生かしているものは、いったい、何なのでしょう?
有史以前から、人類は、それを問いつづけてきました。何かが、じぶんたちを生み出し、生かしてくれている。
その、大きな大きな〝存在〟に気づいていました。
われわれ人問の知忠や力を遥かに超えた絶対なる存在……。
人類は、〝それ〟を「神」と呼んだのです。そして、それを崇め、拝み、畏敬してきました。
科学者たちも、人智を超えた、その実在を認めています。
彼らは、それを〝SomethingGreat〟と呼んでいます。〝偉大な何か〟という意味です。
そこには、科学と宗教を分けるという姿勢がうかがえます。
●宇宙の象徴〝太陽神〟
歴史をふりかえると人類は、その〝偉大な何か〟をさまざまな言業で表してきました。
人類は直惑的に、それは宇宙的な存在であり法力であることを、知っていました。
古代エジプトでは、その象徴として太陽を崇めたのです。太陽神〝ファラオ〟です。太陽は、宇宙の象徴として、じつにわかりやすい存在です。
げんに、地球上の人類は、太陽の恵みなしには、生きること到底かないません。太陽が無ければ、地球上に生命も存在しないのです。
だから、太陽こそ生命の根源であることは、まちがいはないのです。ここから、太陽信仰が芽生えたのです。
それは東洋の仏教信仰でも、同じです。
大日如来とはまさに太陽そのものです。日本の古代神話に登場する天照大神も同じです。太陽の化身であることは、その名からもわかります。
●東洋の仏、西洋のゴッド
「神」の存在とは「宇宙」その物である。
「神」の意志とは「宇宙」の法則である。
———これが、真理です。
しかし、「宇宙」と一言で言っても、あまりに茫漠としています。 広大無辺です。
だから、古代から人々は、〝それ〟を描き表す象徴(シンボル)を創造してきたのです。
古代中国の賢人たちは、それを「天J と呼びました。天・地・人とは、「宇宙」「地球」「人類」と言い換えることができるでしょう。
道教の始祖、老子は万物の始まりを「玄」と呼びました。そして「宇宙」の法則を「道」( タオ)と呼んだのです。
東洋の仏教では「宇宙」を「仏」(ほとけ)と呼びます。西洋のキリスト教では「宇宙」を「神」(ゴッド)と呼びます。ここで、東洋と西洋で、神に対する考え方が分かれてきます。
●「多神教」と「一神教」
東洋では、「仏」はあらゆるところに存在する、と考えます。有名な山川草木悉皆仏性という言葉が、すべてを物語ります。
つまり、山、川、草、木……宇宙のすべての存在に仏は宿っている。つまり、宇宙のすべてが「神」である。これが、「汎神論」です。それを「多神教」と呼びます。
ちなみに万物に「神」を見る思想が〝Animism〟(アニミズム)です。
これに、対して———
西洋では、「神」は絶対的な一人の人格として存在する、と考えます。これが「唯神論」であり「人格神」です。それを「一神教」と呼ぶのです。
「旧約聖書」に登場する〝ヤハウェ〟こそが、その人格神の始まりです。
●豊かな自然と厳しい砂漠
神概念が、東洋では「汎神論」(「多神教」)となり、西洋では「唯神論」(「一神教」)となったのには理由がある、と思えます。その風土の差に着目すべきでしょう。
山川草木悉皆仏性に表現されるように東洋は自然が豊穣です。
これにくらべてキリスト教揺監の地域の中東は砂漠が広大です。
雌花が咲き誇り、蝶が舞い、鳥たちが囀る。そういう環撹なら、人々はこれらに仏性を見ることができます。
見渡す限り無味乾燥な砂漠が、茫々として広がるだけ……。
そのような生命の気配のない風土で、どうしたら「神」の存在を感じることができるでしょう。
さらに過酷な砂漢で生き抜くためには、厳しいリーダーが必要です。そして、仲間同士の約束が重要です。
こうして「人格神」と「契約」の関係が生まれたと、わたしは考えます。
「生命」とは「波動エネルギー」である
●「修復」「活動」「生殖」
生命とは、何でしょう?その答えを、わたしは、これまでに述べています。
それは「エネルギー」です。「生命エネルギー」とは何か?
それは「波動エネルギー」です。「生命体」とは「波動エネルギー体」なのです。『未来を救う「波動医学」』(共栄書房)
これは「波動医学」の根本原理です。さらに「生命」を理解する上で、以下は大切です。
——生体と物体は、どうちがうのでしょう?
生命には、みずからを正常に保とうとするカが存在します。
それが、ホメオスタシス(生体恒常性維持機能)です。生命体には、常に「恒常性」を「維持」しようとする「機能」が内在するのです。これは、無生物(物体)には存在しない機能です。
このはたらきが、自然治癒力の根源です。
生体は、傷ついたりしても、それをみずから修復する作用があるのです。生命体は、さまざまな生命活動を営んでいます。
みずからと同じものを生み出す機能が備わっています。生殖能力です。
生命を特徴づけるものは「修復」「活動」「生殖」といえます。三大特徴すべてに、波動エネルギーが関わっているのです。
●約三〇〇年も昔の科学
「生命は波動エネルギー」であり「生体は波動エネルギー体」である。それも、とうぜんです。
「宇宙のすべての存在は「波動」である。いかなる物買」も存在しない」(マックス・プランク 一八五八~一九四七年)
量子力学の父の「箴言」は、それまでの科学を根底から覆します。宇宙は「波動体」なのです。
だから、宇宙の一部である人間も「波動体」です。わたしたちの身のまわりのものは、すべて物体に見えます。
しかし、それは「波動エネルギー体」であって、「物質」ではない。
頭がくらくらしてきたかたも、いるかもしれません。
わたしたちが学校で習った物理学は、約三〇〇年近くも昔の科学です。いわゆるニュートン科学です。
アイザック・ニュートン(一六四二~一七二七年)は、万有引力の発見で知られます。「ニュートンカ学」「微分積分」などの理論で知られます。
彼には〝近代科学の父〟という尊称がふさわしい。しかし、科学はとどまることなく、進化し、さらに深化を続けます。
(中略)
●瞬時に「診断」「治療」
毎年、抗ガン剤、放射線———というガンの三大療法の副作用で〝殺されている〟ガン患者は三〇万人にたっします。
その犠牲者数は、毎日ジャンボ旅客機が二機墜落している勘定になります。それでも、だれひとり、その驚愕の惨劇に気付かない。
ポリティクス(政治)、アカデミズム(学問)、ジャーナリズム(報道)を〝やつら〟ディープステート(DS)が完全支配しているからです。
ここまで、お話しすれば———現代医学のほとんどすべては、信用に値しない。それが、はっきりわかったはずです。
では、健康と病気のちがいは、どうしたら判るのでしょう?
人体は、波動エネルギー体である事実を思い出してください。
健康とは、「波動」が整った状態です。
病気とは「波動」が乱れた状態です。
人体のあらゆる臓器・組織は固有周波数をもっています。(ソルフエジオ周波数)
臓器・組織が病むと、その固有周波数が乱れます。
「万物の存在は『波動』である」
マックス・プランク(前出)の定理を思い出してください。「波動医学」は、まずその乱れた波動と、正常波動の差を検知します。その差が大きいほど、臓器・組織は〝病んでいる〟のです。
つぎに——。
「波動医学」は、乱れた「波動」を出している臓器・組織に、正常波動を送ります。
すると、〝共嗚〟効果で、乱れた「波動」は調整され、正常波動に修復します。
つまり、瞬時に診断・治療し、痛みも副作用もない。
これが「波動医学」の根本原理です。
●病気、苦悩は波動の乱れ
「病気」は肉体の「波動」の乱れです。
「苦悩」は精神の「波動」の乱れです。
だから「苦悩」の乱れた波動に、正しい波動を送り込みます。すると、乱れた波形も、正しい正常波動に〝共鳴〟して、ゆっくり落ち着きをとりもどし正常波形に近づいていきます。
つまり、「病気」も「苦悩」も、波動の調整で消えていく……のです。
「宗教」の本願は「病気」「苦悩」の救済である!
●神仏なんてどうでもいい
———もっとも大切なことを、書きます。
「宗教」の使命とは、何でしょう?
それは、「神」を説くことでもない。「仏」の教えでもない。誤解を恐れずに言えば、神仏なんて、どうでもいいのだ。人類太古の昔より、「宗教」の本源は、ただひとつ———。
民衆を「病気」と「苦悩」から「救済」することだったのだ。
今、世界中の「宗教」が、堕落と腐敗の極にある。それは、宗教家が、ほんらいの使命を忘れたからだ。
民衆を「病い」と「苦しみ」から救う———。
世界のあらゆる宗教家よ、本来の原点に立ち返れ、と訴えたい。
●生老病死からの救済
釈迦とは、紀元前五世紀前後の北インドの歴史上に実在した人物である。それは仏陀であり、仏教の開祖である。
その呼称「釈迦牟尼」は「釈迦族の聖者」という意味だ。ちなみに、仏陀とは「目覚めた人」という意味である。
青年、釈迦は王家の王子として、妻を娶り子をもうけ何不自由ない暮らしをしていた。
しかし、彼は民衆の「苦」を知り、全てを捨てて、出家するのである。それを表すのが「四門出遊」の故事である。
「——あるとき、釈迦がカピラ王宮の東門から出ると、老人に会った。南門から出ると病人に会った。西門から出ると死者に会った。そのとき、この身には生きる、老いる、病む、死ぬ……四つの苦しみがあることを感得した。(四苦:生老病死)
そして、釈迦は、北門から出たときに、一人の沙門(修行者)に会った。
その世俗の苦しみや汚れを離れた清らかな沙門の姿に感銘を受け出家の決意を固めた。釈迦二九才であった。
釈迦出家の目的は、自らを、そして民衆を生老病死の苦から救うことだった。そして、釈迦は苦行修行の果てに悟るのである。
慈悲、慈愛こそ究極の救いである、と……。
これこそ、仏教の究極の原点である。
●キリストの「山上の垂訓」
イエス・キリストの教えで、もっとも知られているのが「山上の垂訓」である。イエスが山の上で、弟子たちや群衆に説いた教えである。
「貧しきものは幸いなるかな。天国は彼らのものである」
「あなたの敵を、愛しなさい。あなたを憎むものを愛しなさい」
「あなたを呪うものを祝福しなさい。辱めるものに祈りなさい」
「右の頬を打たれれば左の頬を出しなさい」
「飢えるものは幸いである。のちに満たされるからである」
「泣くものは、幸いである。のちに笑うからである」
「自分の欲するものを、相手に施しなさい」
「許しなさい。そうすれば、あなたも許されるだろう」
以下略(『マタイ伝』『ルカ伝』より)
ここでも、貧しいひとびと、病むひとびと、苦しむひとびとを救う教えがある。これらは、現代において——
心理学的、哲学的、生理学的、医学的にも、まったく正しい教えである。
●万教よ原点に立ち返れ
民衆は「苦悩」から救済されると「病気」からも救済される。
「病気」とは「気」の「病い」つまり、「苦悩」そのものだからだ。
よって、釈迦もイエスも絶対的愛情——「慈愛」——の精神において通底している。
このように二大「宗教」、仏教とキリスト教の源点に立ち返ってみた。ふりかえって、現在の仏教とキリスト教を俯瞰してみる……。
もはや、ため息しか出ない。
かたや、葬式仏教、観光仏教、金満坊主……。
かたや、バチカン、小児性愛、悪魔教……。
これは、他の諸宗、万教にもいえるだろう。
——もういちどいう。
あらゆる「宗教」の本願は、民衆を「病気」「苦悩」から救済することである。万教は、この原点に、立ち返るときである。