貝原益軒『養生訓』と並び立つ指南書『修身録』現代にも通ずる「小食主義」の神髄に迫る
壮年に至って一念発起し人相学を極め、大家として千人を超す門人を誇り、教訓の宝庫である著作を残した江戸時代の怪人・水野南北。
食を通じて見定めた健康、立身出世、開運、富……人生を左右する「小食主義」とは?
第一章 いのちと摂食
1 南北先生
水野南北という人をご存知だろうか。大坂の人である。そして男である。生まれは今から二五○年ほど昔。
元号でいうと宝暦のころ、一七六○年前後にあたる。職分は相者。俗にいう人相観である。
しかしこんな説明を続けるよりも、政田義彦が幕末に著した『浪速人傑談」という伝記集の一節を、ここに訳してご覧いただく方がはなしが早い。
水野南北は浪迷の人、阿波座の生まれだという。幼名は熊吉。仕事は鍛冶だったが、若いころは手ひどい放蕩者の無頼者で、悪い評判の立つ人物だった。
しかし中年を迎えて心機一転、人相の研究に没頭。これを終生の業とした。
そして出版された著述が今に残る。
『南北相法十巻』『相法和解二巻』『秘伝抜粋一巻』『修身録四巻』。
人相を極めた南北は、その研究と観察に基づいて、陰徳の尊さを説き続けた。まことに偉とすべきてある。
とりわけ『修身録』は、人が常から心すべき事どもに満ちている。
南北は、天保五年十一月十一日に七十八歳の生涯を終える。
門人達は師を西天満の法輪寺に葬ることとし、五尺にあまる不動明王の石像を建て、これを墓碑にしたということだ。
生まれたのがいつかということが、じつはよくわからない南北なのだが、忌日にはきちんとした記録がある。
法輪寺に不動明王像が建立されたのが天保六年十一月十一日。当時、石像の向かって左に石柱がひとつ立てられ、その由緒が刻まれた。
この不動尊は、南北一周忌追福のためのものだという。
このことから、その一年前である天保五年の忌日が割り出せたのである(西暦では一八三四年十二月十一日にあたる)。
ところで、この不動尊石像は今は見られない。南北没後百年を経て大きく風化したため、その写し身として青銅の不動尊像があらたに建てられた。
元の石像は、青銅の像の真下に眠っているという。
南北の警喩
では南北の声に耳を傾けてみよう。義彦の紹介にもあった『修身録』を以下、読み解いてゆきたい。その全四巻には、食の言葉が、警告の喩えといったものが満ちている。
食の多少を以て富貴貧賎寿夭窮楽行末の吉凶を知る事を弁ず(第一巻ー)
(食事の多少を見定めることて、その人の苦楽、品格、財物、寿命、そして将来の吉凶を知る法を伝えよう。)
このように『修身録』の言葉は、現代からはやや遠い感じがする。
また社会の仕組みも大きくちがう。おおむね今の言葉と表現に置き換え、時には構成を整理して紹介したい。
そのため、本来の個所を特定できるよう、文末には「巻と節」を表示する。
わたしは道を説くために吉凶というものを述べるに過ぎない。だから今ては人をどう導けばよいのか、このことばかリに専心していて、吉凶はほとんど論じない。
それは食なのだ。ただ食が道に至るための入リロてある。わたしがしきリに飲食を論じているのは、心身をどう治めるかということに通じているからなのだ。
心身は食によって養われる。これが根本である。食の決まりがおろそかであれば、心身も同じようにおろそかである。心身がおろそかであれば、自己を治めることはてきない。
食が根本であるというのはこういうことなのだ。
人の悦びも悲しみもあらゆる善も悪も、すべては食がその根本にある。(第二巻二)
2 南北思想の鳥廠図
南北にはすぐれた門人がいた。その中でも水谷一遥と井上正鐵の二人は、南北の小食法を後世に伝えるのに、多大な功鎖があった。
とくに正鐵は、師の考えを、じつに端的に要約した一文を残している。正鐵は江戸の出身。
南北が「修身録」 を完成させて間もないころの門人で、京都東山にあった南北の庵にしばらく住込んだ。
のち江戸に戻って一家を成すが、万般の教えは武家にも慕われ、大層繁盛した。そのため寺社奉行から瞥戒されるようになる。
天保十三年(一八四二年) のこと、みずからの教義につき説明するよう、奉行所より迫られる。
その時の返答、「神道唯一問答書」の中に「麁食少食」の一項があって、これが師説の要約だ。
「麁食」とは粗食のこと。
正鐵は「先生は、粗食小食を続けることが正しいとお教えになりますが、これはどういう理由なのでしょうか」という弟子からの問いかけに答えている。
人というもの、美食大食に耽るようになれば、身体は壊れ、気分も沈みこんてしまう。身辺かならずや貧しくなリ、やがて慢心まて生じよう。
美食大食になじんだ者は、食に困る者を思うこともなく、人の苦しみをどうにかしようともせず、わが身のことだけを考えるからそうなってしまうのだ。
自分の食事をすこしても残すことで、人の飢えを救おうとする心がない。
田畑を耕す人に感謝しようともしない。それに加えて美食大食は、血を重くし、気を弱らせ、怠ける心を起こさせる。
神の御心に背くとはこのことだ。やがて加護も薄くなリ、苦労や禍いから逃れられなくなるだろう。
また美食ばかりて働くことをしない者には、癇癖があらわれる。塞ぎ込んだリ、また怒りちらしたり、そうかと思えば性欲の虜になる。
豊かな家に育つて、子供時分よリ怠惰美食だった者はなおさらだ。恐るべきは美食大食てあり、絶対に避けるべきなのだ。
論の連びにやや粗いところがあるが、これは身辺の危難に際して、急いで自分の思いを口述したからであろう。
このすぐのち正鐵は、三宅島へ遠島となる。
文中に見える「自分の食事をすこしでも残すことで、人の飢えを救おうとする心」は、原典では「我一飯をのこして人の飢を救ふの心」である。
この一文はまさに南北思想の核心でもあろう。正鐵を敬う方々は今もこの言葉を拠り所とし、なお大切にしておられる。
3 空腹と食味
正鐵の守備範囲は広い。小食論はそのひとつだった。だが南北の『修身録』は食の一本槍だ。
しかしその切り口は多彩だ。「空腹に不味いものなし」「空腹は最高のソース」ということわざがあるが、南北もまたこれと同じことを言っている。
味がしなくて食がすすまないのであれば、食べてはならない。
いつも腹に物が入っているから味がしないのだ。
もし三膳食べているのなら二膳に、二膳だったら一膳にしてみるがよい。
腹に隙がてきれば、たとえ粗食だとしても美味に感じて自然と食はすすむ。
このようにして食を慎んていれば、三度三度の食に味がしないということはなくなるだろう。
おかずらしいものがなくても、美味を感じて食はすすむ。慎み悪く、いつも存分に食べている者は、美味を口にしても味がしないものだ。
だから味を感じなければ、一日食べなければよい。そうして一日食べなければ、おかずなして、塩だけても十分に飯がすすむはずだ。食を腹を満たさない。
食にとっての善とはこのことてある。腹が空いている時は、よい心地、すこやかな気分でいられるものだ。
食事をする前にはだれもがそう感じる。それが人間にとって本来の善であるからなのだ。
このことがわかっていながら大酒暴食をする者は、悪と知りながら悪に手を染めているのと同じ。
何をさせても身のほどを省みず、自分から火に飛び込み、炎に焼かれてしまう虫と変りがない。
(第三巻二)
小食と断食
南北の小食法紹介の最初には、広くなじみがある内容で、筆致のやさしい節を置いてみた。
人間には食の「業」というものがあり、また食べすすむうちに満腹を通り越してしまうという悪癖がある。
それについての注意である。
しかしこれは単なる「空腹のすすめ」にはなっていない。その論法には、南北独特の加味が
ある。
最後にはやや怖い言葉がならんでいる。この節の「三膳を二膳に、二膳を一膳に」という主張は、他の節でもじつにしばしば登場するのだが、「一日、食を抜いてしまえ」と人に勧めることはほとんどない。
食に波ができることをとても嫌う。したがってこれも一種の喩えなのであろう。
たしかに南北は、みずから誓願のために断食することがあった。だがそれは、からだのためではなくて、気を集めるための行のようなものだった。
南北が「修身録」を著した江戸時代後期、食はすでに一日三食に移行していたといってよい。また間食もさかんになっていた。
その三食を三食の限りにして、そして小食で済ませ、その量は毎日が同じようにせよーーこれが南北の基本である。
〇主な目次
I部 水野南北の小食主義
第一章 いのちと摂食
第二章 摂食と立身出世の見定め
第三章 摂食と人間関係の綾
第四章 摂食とからだとこころ
第五章 福禄寿の思想
II部 水野南北小伝──『修身録』の成立と南北その人
江戸時代の小食主義――水野南北『修身録』を読み解く | ||||
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