30日間、食べることやめてみました 榎木 孝明 (著)

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30日間、食べることやめてみました (「不食」という名の旅・不食30日間 全記録DVD付き!)

常識の枠の外へ

不食は意識の覚醒を促す。食べずにいると頭がクリアになる。

それは、多くの不食の経験者である先人たちが教えるところでした。私も、自身の不食の体験から、それを実感するようになりました。

もしも、食べずにいる間、研ぎ澄まされた感覚が続くとすれば、不食をさらに続けていけばどうなるのだろう。

こんなことを考えているうちに、自分の中で頭を持ち上げてきたのが、世の中の常識というものに対する疑いでした。

私たち人間は社会的動物であり、社会の中で成長し、社会のほかの成員とともに協調しながらいとな生きていくうちに、多くの常識を身に付けていきます。

常識とは、私たちが日常生活を営むうえで必要、かつ、便利なものです。

しかし、その一方で、常識はいわば固定観念として、私たちの思考や行動様式をしばっています。

固定観念にしばられている限り、私たちは自由な発想もできなくなるおそれがあります。

こうして常識の中に安住し、その中でぬくぬくと暮らすことは、本来、私たちが持っている能力を枠にはめ、可能性を押し殺しているのではないか。

実は、昔から、私はそうした思いを抱き続けてきました。

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たとえば、大好きなインドやチベットヘの旅で、私は日本食を携えて行ったことが一度もありません。食事はすべて現地食でまかなってきました。

現地食がすべておいしいとは限りません。

それでも、世界のどこへ行っても、現地の人が食べているものをいつもいっしょに食し、それに不満を覚えたことはありませんでした。

辺境の地へのドキュメンタリー撮影などで、日本人クルーたちとの長旅も何度となくしています。

食に関しては、スタッフよりも私のほうがかなりたくましいといえるでしょう。

チベットで、現地食が合わないというスタッフが日本から持ってきた食料を食べているとき、私はツァンパと呼ばれるチベット人の主食の麦こがしの粉と、グルグル・チャと呼ばれるバター茶を現地の人たちといっしょにとっていました。

ネパール・ヒマラヤでひと月の撮影を終えて下山したときのことです。

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明日は掃国するので現地スタッフとのお別れの食事会を開こうということになり、ネワール料理というネパールの郷土料理を食べようと提案すると、賛成して手を上げたのは提案者の私一人でした。

あとの日本人スタッフは、全員がカトマンズにある日本食レストランのほうに手を上げたのです。

帰国すればおいしい日本食を食べられるのに、その一日ががまんできないことに、私は不思議な思いがしました。

豆腐ひと皿が一日のポーターの賃金よりも高いことなどには意にも介さずに、さほどおいしいとも思えない日本料理で最後の祝杯をあげたのです。

そんなスタッフを声高に非難するつもりは毛頭ありません。

しかし、日本食や日本がいちばんという常識に唯々諾々と従うのは、現地食の玄妙な味わいや現地の人たちとの生の交流から得られる幾多の可能性を放棄することになりかねません。

しかも、それは、そういう自分のあり方、生き方になんの疑問も抱かずにいられることと同義でもあるのです。

もちろん、常識にとらわれず、現地の生活へ足を踏み入れれば、新しい経験が得られる代わりに、現地食が口に合わず腹を下したり、荷物を盗まれたり、トラブルに巻き込まれたりなどの手痛い失敗も生じます。

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新しいおもしろさも見出せるかもしれませんが、その一方で、苦労もふえます。しかし、私は常に後者を選びたいと思い、実際にそのように行動してきました。

私たちがとらわれている常識の枠をはずしたときにこそ、本当の経験が得られるのではないか。

何か新しいことが始められるのではないか。こう考えてきた私は、当然、食に対しても、同じように疑問を向けました。

人は食べないと、どんどんやせ細って、動けなくなり、死んでしまう。

それが常識とされています。しかし、それは、本当にそのとおりなのか。

現に私自身が、2週間程度ほとんど食べなくても、ピンピンしている。それどころか、頭の働きがクリアになり、体調さえよくなっているではないか。

ならば、さらに不食を続けて、死ななかったとしたら、どうなるだろう。私はその先の世界を見てみたくなりました。


30日間、食べることやめてみました (「不食」という名の旅・不食30日間 全記録DVD付き!)

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