白川太郎連載コラム【第二回】

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白川太郎連載コラム 11月27日早朝06:20のフライトで福岡に飛び、そのまま特急電車で移動、佐賀でバイオレゾナンス学会に参加してきた...

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白川太郎連載コラム

私、白川太郎は当然のことながら、100%完治する道を求めるのが医師としての務めだと考えてきた。その理由は私自身の生い立ちによるところが大きい。

そこでまずは私が、今日に至るまで、どのような道を歩んできたかを順を追って話してみたい。

私は大分県の現別府市、当時は別府市内でもない田舎地域に今を去ること60年前に生まれた。

なぜここで生まれるかの必然性は何もない。私の父は、非常に数奇な運命を歩んだ人物だった。

彼の父、すなわち私の祖父は実は京都五山の筆頭、天竜寺の管長であり、祖母は福井県の名家に生まれ、なぜか同じ福井県の出身であった管長のお世話に送り込まれ、父を生んだのである。

しかし、父親が僧籍にあるためこの婚姻は認められず、いわば父は私生児と育てられたのである。

その後、管長がなくなり、祖母は父を連れて故郷福井県に帰ることになる。

そして福井県の豪農であった福田家に連れ子を連れて嫁ぐことになる。福田家の当主はとても父をかわいがってくれて、父は地主の長男として将来が約束されていた。

しかし、当主が突然亡くなり、当時の風習として、当主の弟が家を継ぐため祖母と再婚したのである。

ここから彼の人生は暗転することになる。

弟当主は父を蛇蝎のごとく嫌い、ついには本当の父親のもとへ帰れとばかり、天竜寺や妙心寺に預けてしまうのである。

遠く離れた京都の地で我が家や祖母を思っては脱走し、家に帰りついてはまた寺送りという日々だったようだ。

この辺のあらましは、直木賞作家である水上勉氏が実名で父のことを受賞作 越前竹人形に書いている。

やはり福井県出身であった水上氏は、小さいころ、京都の寺で修業時代、父の世話をしてくれたそうである。

大いに感謝している。

その後私が京大医学部に合格した際には名前入りの万年筆をお祝いに送ってくれた。重ねてお礼申し上げる次第です。

こうして福井県でも指折りの地主の長男として育つはずだった父の前半生は流浪の民と化したのである。

幼少時に遠く家を離れ、幾度となく家に帰りついてはまた追い出される人生。息子として彼は何を思っていたか、察するに余りあるじゅくじたる思いがあっただろう。

そしてこれが彼のその後の人生を大きく支配し、やがて私の反骨心の芽生えに大きく寄与するのである。

続きはこちらから: 白川太郎連載コラム【第三回】

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白川太郎連載コラム【第一回】

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白川太郎

1983年京都大学医学部卒業。英国オックスフォード大学医学部留学を経て、2000年京都大学大学院医学研究科教授。

2008年6月 長崎県諫早市にユニバーサルクリニックを開設、院長に就任。2013年東京銀座に、東京中央メディカルクリニックを設立、理事長に就任。

オックスフォード大学留学中にネイチャー、サイエンスなど一流誌へ多数論文を発表し、日本人医学者としてトップクラスの論文引用数を誇る世界的な遺伝子学者である。

現在は、病院から「もはや打つ手なし」と見離された患者たちを死の淵から救う「Ⅲ~Ⅳ期がん治療専門医」として、「免疫治療」「遺伝子治療」「温熱療法」という三つの治療法に、さらに全身状態改善のための「栄養療法」を組み合わせた治療を行なっている。

主な著書に「「がん」の非常識 がんの正体がわかれば末期がんも懼れず」「末期がん、最後まであきらめないで!」などがある。