白川太郎連載コラム【第三回】

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白川太郎連載コラム

反逆する父に手を焼いた弟当主はついに父を養子に出すことにした。

叔父にあたる伊藤氏には子供がおらず、伊藤氏は日本建築士会会長も務めた方重鎮で、一族的にも問題なしと判断されたようである。

福井県は、冬の積雪のため出稼ぎに出る人が多く、建設業に強く、熊谷組や飛島建設など、大手中堅の建築会社の本社は福井であった。

そのつながりもあり、建築設計士界に強い力をもっていると聞く。

父が福田から伊藤になったことで、私も大学の4年生までは伊藤太郎と名乗っていた。伊藤家のご夫妻は物静かで私や妹にはとてもよくしてくれたと記憶する。

父の故郷は大野市といい、福井県の東南部に位置し、豪雪地帯として知られる。

福井藩は大藩加賀藩への見張りとして松平家が納める親藩大名であり、大野藩はその家老職を担う重要な地位にあった。

天然記念物イトヨが泳ぐ美しい水に囲まれた小都市であり、またすぐ近くには、勝山市に永平寺や平泉寺という由緒ある寺院がありよく通ったものである。

しかし父には納得できなかったようである。

ことごとく衝突していたと後から母に聞かされた。後を継ぐために建築設計士を目指すには大学の工学部に入る必要があるが、わざと白紙答案を出して不合格になるなど、決してお前らの思い通りにはならんぞと抵抗していたようである。

それでも抵抗は続けられず、大学に入り、東京へ住むことになる。

実の叔父が、NHK交響楽団のバイオリン奏者でコンサートマスターをしていたため、その家に泊まり込んでいたという。

この叔父のおかげで後に私は、世界的に有名な、カラヤンやハインツ・ホリガーを知ることになる。

その叔父にバイオリンを習いに来ていたのが、私の母だったのだ。

その後、父と母の間でどのような話が合ったのかは知らないが、母の大学卒業と同時に二人は手に手を取って“駆け落ち”したのである。

世間を知らない二人がよくぞ思い切ったことをしたものである。父も父だが、母も母である。

この母もまた父に劣らずとても変わった人物であり、彼女の生い立ちを知れば郁子なるかなと納得のいく幼少時代を送ってきた人である。

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白川太郎

1983年京都大学医学部卒業。英国オックスフォード大学医学部留学を経て、2000年京都大学大学院医学研究科教授。

2008年6月 長崎県諫早市にユニバーサルクリニックを開設、院長に就任。2013年東京銀座に、東京中央メディカルクリニックを設立、理事長に就任。

オックスフォード大学留学中にネイチャー、サイエンスなど一流誌へ多数論文を発表し、日本人医学者としてトップクラスの論文引用数を誇る世界的な遺伝子学者である。

現在は、病院から「もはや打つ手なし」と見離された患者たちを死の淵から救う「Ⅲ~Ⅳ期がん治療専門医」として、「免疫治療」「遺伝子治療」「温熱療法」という三つの治療法に、さらに全身状態改善のための「栄養療法」を組み合わせた治療を行なっている。

主な著書に「「がん」の非常識 がんの正体がわかれば末期がんも懼れず」「末期がん、最後まであきらめないで!」などがある。