白川太郎連載コラム【第五回】

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白川太郎連載コラム

これからの母は大暴れすることになる。当時一橋大学と津田塾大学の学生寮は隣り合わせだったらしく、塀をよじ登って相互方向に突撃が繰り返されたようである。

その結果、一橋大生の嫁さんのかなりが津田塾大生という“都市伝説”が流れたのだが、本当だったようである。

満たされない母は、バイオリンの練習を始め、当時NHK交響楽団でバイオリンを担当していた父の叔父である坪田氏に教えを乞うことになり、父と出会ったと思われる。

思われるというのはこの辺の経緯を母は語ろうとしないからである。

父は息子の私が言うのも何なのだが、今風にいうイケメンで、おしゃれであった。

服はバーバリー、靴はアルマーニ(らしい、私はブランド名がわからない)という具合で、颯爽とした身なりに身を包んだ若き頃の斜視を見ると男の私でもかっこいいなと思うくらいのダンディーさである。

私が大学卒業直前に父はなくなるのだが、卒業後まともに着る服もないので父が残したバーバリーの服を着て、アルマーニの靴を履き、車はフェアレディーZで大学病院に現れたら、皆が仰天したのを覚えている。

私は父の対極にいてボロボロの服装、足は草履という始末だったからである。

そんな父だからおそらく母も気にいったと思うし、何よりも二人は出身家に不満が強かったので同じような境遇と思ったのか意気投合したようである。

そして母が22歳で大学を卒業すると同時に二人で駆け落ちしたようである。

当然両方の名門家は激怒し、双方から勘当処分を受けることになる。私が生まれたのが母が24歳の時なので、この後名門のお坊ちゃんお嬢ちゃん夫婦はどうやって2年間を暮らしていたのかは全くの謎であり、母は全く話そうとしない。

ところがである、昭和30年6月18日私がこの世に生を受けるや事態は一変するのである。

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白川太郎

1983年京都大学医学部卒業。英国オックスフォード大学医学部留学を経て、2000年京都大学大学院医学研究科教授。

2008年6月 長崎県諫早市にユニバーサルクリニックを開設、院長に就任。2013年東京銀座に、東京中央メディカルクリニックを設立、理事長に就任。

オックスフォード大学留学中にネイチャー、サイエンスなど一流誌へ多数論文を発表し、日本人医学者としてトップクラスの論文引用数を誇る世界的な遺伝子学者である。

現在は、病院から「もはや打つ手なし」と見離された患者たちを死の淵から救う「Ⅲ~Ⅳ期がん治療専門医」として、「免疫治療」「遺伝子治療」「温熱療法」という三つの治療法に、さらに全身状態改善のための「栄養療法」を組み合わせた治療を行なっている。

主な著書に「「がん」の非常識 がんの正体がわかれば末期がんも懼れず」「末期がん、最後まであきらめないで!」などがある。

知らないことは罪である。知ろうとしないことはさらに深い罪である。シェアして拡散しましょう!

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