白川太郎連載コラム【第六回】

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白川太郎連載コラム

福岡の祖父が突然“勘当”を解き、180度大転換して、援助を申し出たのである。

なぜだかわからないが、自分の子供が4人続けて娘となり、孫の4人も女の子が続いたので、私の誕生で、待望の男子誕生となり、狂喜して喜んだからだということらしいのだが、その後の彼の並外れた両親への支援を見ると強ちこの噂は嘘ではないようである。

私はすでに生まれる10年も前から男子誕生に備えて祖父が命名していた“太郎”に即決したのである。

当時私は別府の郊外にある国立亀川病院で生まれるのだが、この病院は当然のことであるが、九大の関連病院で後にお世話になる方々が勤務した病院である。

昭和30年6月18日にはこの病院では12人の子供が生まれたのであるが、男子は私だけという異常事態で、赤ちゃんの足には何々家坊ちゃん、お嬢ちゃんと書かれるのだが、私だけは間違いようがないので、何も書かれなかったと聞いている。

母は母乳だけでは足らなかったようで、父が森永のミルク缶を買ってくるのだが、そのミルク缶には赤ん坊と鈴を首につけたホルシュタイン牛がデザインされていて、突然父がそれを見て牛を飼いたいと言い出し、祖父は大枚を叩いて別府郊外に土地を買い、牛を飼って両親に与えるのである。

当時、大卒の初任給は10000円前後とされ、ホルシュタイン牛はそれをはるかに越えて何万円もしていて、そんな牛が100頭以上も何Km2もの広大な土地に放牧されたのである。

祖父は当時九州に数台しかないという外車に乗って若い夫婦の応援に福岡から別府へ何度もやってきたという。

いかに彼が娘夫婦をかわいがったかがわかるのである。

祖父はそのほかにも車や、運搬用のトラックなど、いわれるがままに惜しみない支援を続けたという。

こうしてこれまで各地を転々とさまよったであろう若夫婦は、突然、何不自由ない暮らしを送りはじめ、生まれたばかりの私は、祖父の期待を一身に受けて別府の山奥で暮らし始めたのである。

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白川太郎

1983年京都大学医学部卒業。英国オックスフォード大学医学部留学を経て、2000年京都大学大学院医学研究科教授。

2008年6月 長崎県諫早市にユニバーサルクリニックを開設、院長に就任。2013年東京銀座に、東京中央メディカルクリニックを設立、理事長に就任。

オックスフォード大学留学中にネイチャー、サイエンスなど一流誌へ多数論文を発表し、日本人医学者としてトップクラスの論文引用数を誇る世界的な遺伝子学者である。

現在は、病院から「もはや打つ手なし」と見離された患者たちを死の淵から救う「Ⅲ~Ⅳ期がん治療専門医」として、「免疫治療」「遺伝子治療」「温熱療法」という三つの治療法に、さらに全身状態改善のための「栄養療法」を組み合わせた治療を行なっている。

主な著書に「「がん」の非常識 がんの正体がわかれば末期がんも懼れず」「末期がん、最後まであきらめないで!」などがある。