生まれて初めての骨折、病院での学び、薬害のこと【とうとうやっちゃった!!】

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

一、不慮の事故

9月の18日。朝10時。

「あっぁ? とうとう、やっちゃった。俺って、何て、阿呆(アホウ)なんだろう!」

生まれて初めての骨折である。あの巨石群の庭石から滑り落ちての打ち所が、右脚の皿。「割れたか!?」草刈り中であった。

作業ズボンが裂け、粘血がドッと噴き出し、「アッツ!これは」

触ると、左皿に比し、幾分フワフワしている。「ワー、不甲斐(ふがい)ないことをしたナ」

咄嗟(とっさ)に、119番で救急車を呼んだ。

一時間後、この部落の長老宅前が仁木神社祭りの神輿(みこし)の一時休憩所となる。

そこで、持ち廻(まわ)りの会長役で、宮司に金品を手渡す手筈(てはず)になっていたので焦(あせ)っていた。

すぐさま、家内が、駆けつけて止血タオルで、必死に血を拭いてくれる。間もなく、援農の島田専務が数人のボランティアの方々を引卒し到着。

岩場に隠れ込んでいて、声を掛けようにも掛けられない。余市消防署から救急車が到着。仁木余市では対応できず、サイレンと共に小樽の済生会病院へと向かう。

だが、不思議と膝が痛まない。「単なる傷であったら、申し訳ないです」と救急隊員に告げると、「それも結果ですから、気にしないでください」と慰められた。

二、開放右膝蓋骨(しつがいこつ)骨折

小樽の病院に着くと、即レントゲン。

「残念ですが、皿が三つに砕けていました。割裂(かつれつ)した傷口があって膝蓋骨への感染症の罹患(りかん)率が高いので、即手術に入ります」

「やはり、割れていたか」内心、ガッカリ。幸い大腿骨と脛骨(けいこつ)・腓骨(ひこつ)の筋肉や腱と靭帯(じんたい)が繋がったままで、端が縦に3分されたので回復に支障がないらしい。

この時に思ったのが、家内の重労働へ、さらに私の分の負担が圧(お)し掛かることだ。

退院は10日ほどで済むが(ところが、それは傷口が塞がる期日だった)、回復には3か月から半年かかると言われた。今期復帰は絶望的だ。

「ワァー、どうしよう」。

それでなくとも、作業が遅れて山積みである。

収穫は、「ほっとけ栗丹(くりたん)」(栗丹瓜(くりたんきん)、長寿郷、白楽天、姫小町)と「味皇(あじおう)」、「栗豊(くりゆたか)7」のカボチャはまだ350m残り。

2日の作業で、2階納屋の床がびっしり。あと3倍はあるだろう。

さらに白菜・大根、諸々。間もなく、漬物大根の時期に突入。毎日の大根抜きの重労働、どうしよう。昨年の倍はある。

この日は、偶然にも80歳の高田さんが白内障の手術日。その結果も心配だ。

さすが今夏の暑さで、無理は利(き)かない。帰り時間を午後4時半に定めて、それを目掛けて収穫に集中する。

菜っ葉やキュウリや豆の収穫が一番難儀だ。これは家内の役目。腰を屈(かが)めるからだ。相当、体に堪(こた)える。

これからしばらく、私の膝が容易に曲げられない。つまり、手伝えない。

事故の前、菜っ葉の種を、撒(ま)けるだけ撒いた。この収穫が半端でない。100mの筋が何十列あるのか。気も遠くなる。

あと1,2か月もすれば、晩秋の畑整理。冬の雪かき。この前途多難な現状に、溜(た)め息が出そうだ。頭の中は、膝の事より、農作業のことで一杯一杯だった。

三、家内への負担

家内に「すまんね。こんなことになって。これから、あなたが大変なことになる」と呟(つぶや)いた。

だが「あなたの体が一番大事。畑は、どうでもいいの」と透(す)かさず答えた。

そうは言え、さらに熱心に、畑仕事に猪突猛進(ちょとつもうしん)してゆくその根性。

どんなことも肯定的にとらえ、「なるようにしかならない」「何でもどうにかなる」、と、本当にこれまでどうにかなって来た。

逆に、こんな困難な時ほど益々ファイトが沸き、その前向きに突き進む彼女の情熱というか、怖いほどの不屈の意志というか、どこから来るのだろうか。

悲観的な否定語を全く発しない。魔女的でさえある。

この覚悟、腹構え、内心〈スゴイ性根(しょうね)だナ〉と感心せずにいられなかった。

全身麻酔で、全く意識の欠片(かけら)さえなく、「宮下さん、手術が無事終わりましたよ」と何度も、呼びかけられた時、時間が逆流するような不思議さを伴った感覚を覚えた。

麻酔の残余か、その夜夢で、縛られた自分が念力で空中浮遊し、開(あ)かずのドアを魔法の一指(ひとさ)しで開けるなどなど、みんなの上を自由にピーターパンのように飛び回る快感と子どものような燥(はしゃ)ぎよう、それはハリー・ポッターの悦びの不思議世界であった。

四、緒方女史の事故

それに引き換え、その夜の痛みときたら、我慢できず、とうとうナースコールで三度も鎮痛剤。最後は、座薬で、ようやく朝方眠りについた。

その時、ひっきりなしに心に思い浮かんだのは、4年前の博多で起こった緒方紀子女史の両脚の複雑骨折の顛末であった。

路肩に車を止めてトランクを開けている所に、後ろから車が突進してきて両脚骨折。

とてもとても、ここでは言い表せられない大事故で、言ってみれば、大腿骨(だいたいこつ)から下が粉々に砕け散ったと言った方が、当たっているだろう。

死の一歩手前の惨状であった。半年にわたる手術に次ぐ手術は五度。

チタンの太ボルトが4本入り、患部を固定化させたので手技では曲がらず、次には機械で曲げるという凄まじい荒療治の激痛に耐えられること2か月。

抗生剤も打ちっぱなし、輸血も余儀なくされた。免疫力の激減、HIVなどのウイルス感染の恐怖、しかし万事お任せしかなく、そこはただ祈りの毎日しかなかったといわれた。

まさに煉獄(れんごく)から天国へ。「散りて咲く」と激励の言葉を贈らせて戴いたが、今回の痛みの千万倍の痛みに耐えて来られた神の試練というには、余りにも酷(こく)なること筆舌に尽くし難く、今更ながら、私の贈った言葉の虚しさを覚えた。

元高校テニス部教師。今はテニス復活までリハビリに励まれた。いかにその道は遠かったか。

持ち前の明るさで、希望をいつも胸に、そして何よりも、加害者に責めを求めない、きっぱりと許す潔さ、その愛の深さ、品格の美しさに人として尊敬し感動するばかりだ。

この度の体験は、人への理解の第一歩であることを、身をもって知った。

35年のまほろば時代、一度の入院生活もせず、風邪もひかず、病院といえば歯医者くらいなもので、家内がしてくれていた食事に依る健康管理を殊(こと)に感謝したい。

「骨折は、一度もしたことがない」が唯一の自慢であったが、最初の一言「とうとう、やっちゃった」で、それがなくなってしまった。

五、病院での学び

しかし、入院生活で実にいろいろ学ぶことが多く、生きる道標(みちしるべ)も頂いた。

見れば周りは、若いスタッフ。2,30代、40代に囲まれている。時代は今更ながらだが、変わったのだと。

世の中を動かしているのは、この子たちなんだなー、と改めて思う。

そして、ベテランを軸に何処でも皆懸命に生きている。これが新鮮に、眩(まばゆ)く映(うつ)る。

お医者も、看護師さんも、療法士さんも、食事係から掃除のおばさん、そして入院の患者さん。みなそれぞれに誠実に明るく精一杯働いている姿に、感動する毎日なのだ。

身が弱ってこそ、人の親切や心根が身に染みる。まほろばの店のみんなも、かくあらねば、と教えられたりした。私の植え付けられた病院のイメージが、整形外科の所為(せい)もあるが、一変した。

ふとロビーの壁を見ると、こう書かれてある。

『胸に手を当てて考えよう。自分の態度。自分の言葉。』を標語に接遇改善に努めております。

『優しい言葉 嬉しかった気遣い 心に残る素敵な笑顔』などがございましたら、差支えのない範囲でアンケート用紙に職員の名と内容を書いて設置箱にお入れくださいませ。

看護師の女性に、それを訊(たず)ねると「知らなかった」という。上からの教育よりも先に自主的に優しく対応している皆さんに、さらに感心してしまった。

対応の一つひとつ、言葉の一言ひとことが、敏感に響くのも、こちらに痛みがあるからだろう。

本心からの接し方でなければ、病人は見透(みす)かすだろう。ことに老人社会の今、交わす一言が何よりの滋養であり、施薬ともなる。

かく其処(そこ)彼処(かしこ)に、日本人の思いやりが溢れていることに、日本の行く末を明るく思うのだ。

反日教育で育った他国の人々が来日して、日本人の親切心に触れ、マナーの良さに驚き、清潔な街の隅々に、日本への見方が180度変わったとの報告を度々聞くが、自国でその民度の高さを改めて感じて、日本人の優しさ、心配り、清潔感、どれをとっても一級であることにひどく感心してしまった。

「一隅を照らすは、國(くに)の寶(たから)なり」国の隅々に、この灯が光っている。

六、生きる希望

ある朝、洗面場で出会ったおばあさん。

85歳で余市に住まわれているという。ご苦労の深き皺(しわ)と真白き頭髪。

「余命幾許(いくばく)もないのに、息子に勧められて。両脚、人工関節の手術したんですョ。あぁ、30年前にしておけばとつくづく思いました。足がカニのように曲がり、背中も曲がり、杖を突いて歩くのがやっと、痛くて痛くて切ない思いをして来ました。でも、今はこれこの通り、背筋もシャンと伸び、スタスタと歩けるようになりました。もう嬉しくてうれしくてね……」

「おかあさん、あと20年は生きられますね」と言うと、顔いっぱいに笑みを浮かべて、私も幸せな気持ちになりました。

人の悦びが、こんなに伝わるなんて、今までありませんでした。

「人生って、良いもんだなー」としみじみ思ったんです。医療の進歩は、こういうところでひとの幸せを齎(もたら)せているのかと、済生の精神を身近に見届けた朝でした。

七、済生会の由来

この行き届いた病院が特別なのか、全国の病院がこの水準なのか分からないが、「ここは、どなたが経営されているんですか」と、看護師さんに聞くと、「秋篠宮(あきしのみや)殿下です」との答え。

救急で入ったので、何の前知識もなかったが、皇室との関りがあったのかと改めて知った。

「……若シ夫レ、無告(むこく)ノ窮民(きゅうみん)ニシテ医薬給セス、天寿ヲ終フルコト能(あた)ハサルハ、朕(ちん)カ軫(ちん)念(ねん)シテ措(お)カサル所ナリ、乃チ施薬救療、以(もっ)テ済生ノ道ヲ弘(ひろ)メムトス、……」

(……もし国民の中に、生活に困窮して医療が求めることもできず、天寿を全うできないものがあるとすれば、それは私が最も心を痛めるところのものである。これらの人々に薬を与え、医療を施して生命を救う――済生の道を広めたいと思う……)

明治天皇の『教育勅語』か、と見紛(みまが)うほどの『済生勅語』を明治期発布、御下賜(ごかし)があって設立されたのがこの済生会の初め。

陛下御自ら手許金を差し出し、これを許に済生実現の道をお開きになられたのであった。

それは、593(推古)年の聖徳太子の「施薬院」、730(天平)年の光明皇后の「悲田院」を思い起こす社会福祉事業の国家的聖業の一貫でもあった。

済生会病院の前置きに、「社会福祉法人恩賜財団」とあり、いわば陛下の「救国済生」の皇室精神がここに受け継がれ、大正13年手宮に「小樽診療所」として開設されたとか。昭和27年には総合病院として華開かれ、今日に至った訳である。

何事も、人において初一念(しょいちねん)というか、会社においては「社是」、国おいて「国是」が肝要。

過去に鎖国や富国強兵などあったが、この「博愛済生」の精神は、千年を隔てても色褪(あ)せず、万古不変の真理と共感を以て、いつの時代にも迎えられる言霊(ことだま)ではなかろうか。

そんな厳粛な思いにもさせられた入院生活であった。

八、薬害のこと

さて、話が打って変わって、抗生物質の使用。

単純な骨折と違い、「開放骨折」は質(たち)が悪く、外傷から骨に菌が感染して、治りを複雑に遅くするらしい。

向かいの病友は、そのために相当に肉を削ったという。病院としては、止(や)むを得ないのであろうが、薬を飲んだことが余りない自分にとって、内臓の負担は相当なものだろう。

湿疹が出たり、ムーンフェイスになったり、痒(かゆ)みに悩まされたり、頭がふら付いたり、ちょっとした添加物や農薬に反応するようになったりした。

今回は人体実験で、なるほど、これがアトピー体質を誘発する原因かと思った。

今まで、他人事だったことが、我が身に起こったのだ。病院の処方に逆(さか)らえないから、為せるままであった。

突発事故で致し方ない。生来敏感症の人にとって、これが化学物質や電磁波過敏症などの障害を引き起こす引鉄(ひきがね)にもなる訳だ。

抗生物質一つとっても、英国Dr・A(アレクサンダー)・フレミングがペニシリン発見より100年、人類史において人々の生命(いのち)をむざむざ亡くしてしまった堆(うずたか)き悲しみの山々をどれだけ救って世の中を明るくしたことだろう。歴史的大貢献である。

しかし、それが行き過ぎて、今度は人の命を蝕む元凶にもなってしまった。

陽極まれば陰に転ず。ほどほどの所で手を打つ知恵の医学というものがこれから必要なのだろう。

九、日々の菌造り

ある抗生剤は、抗体ができて10年は潜伏するというから、何と反応して悪さをするか見当がつかない。

耐性菌も出来、なかなかその後の複雑な絡(から)みが得体の知れない病気や、一層病状を複雑にする。

院内感染で多くの患者も亡くなっている。今まで、多少の農薬や添加物は抑え込む免疫力があったが、反応し始めた。

これが元凶になって、不治の病に進んでゆく場合も多いだろう。悪い菌も殺すが、良い菌も殺す。

それには、普段から発酵食品、優れた腸内細菌を醸成する食事が大切だ。

普段以上に、これら抗生軍団に負けない布陣を整えなければならない。病院の食事は、適量で慎ましく品の良い薄味であった。

だが、毎朝快便快眠の私が、4、5日間の便秘には、さすが気分が滅入ってしまった。

これほど胃腸が働かなくなるものか。体を動かさない原因も大いにあろうが、善玉の腸内微生物が野垂れ死にすると、こうまでダメージがあるものか。

女性がよく一週間便秘する話に、「ありえへん」「考えられへん」と思っていたが、我が身に降って来て合点納得。「この気分か!」と、初めてその気になれた。

遣(や)り切れないので、「農園野菜と味噌やヨーグルトを持って来て!」と、頼んで食する。

家内は、玄心(玄米を黒焦げに炒って煎じた汁(スープ))と、700種類以上の原材料で作ったエリクサー発酵液に梅干しと醤油(新醤(あらびしお))を入れ、お湯で薄めた飲み物を持って来てくれた。

立ちどころに便通があったのには驚いた。さらに、牛スジと豚の軟骨を二日間かけて煮込み(家内は圧力鍋を使わないので)、それに、ごぼうや里芋、人参、ニンニク、玉ネギなどを入れたものを持ってきてくれた。

後で聞くと、患部の炎症を抑え、骨の治りを早くする為に作ってくれたらしい。

こうした外での体験に、生きた食物や微生物のエネルギーの違いを知り、成程と腑(ふ)に落ちた次第だ。

十、報恩へ

さらに病院生活は、車椅子の覚束(おぼつか)なさ、足を動かせない不自由さ、夜中に何回も起きる辛さ、これからの老後や、老々介護などなど、人の境遇を想像する縁(よすが)になる大切さをいろいろ教えられた学びの場であった。

「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始め也」。その孝を破っての事故、この親の恩に報わねばならない。

よくバイオリニストやピアニストが1日練習を怠れば、元に戻すのに1週間かかると言う。

理学療法士の方も、「2,3日筋肉を使わなければ、戻すのに2,3週間はかかりますョ」と同じように言われた。

ベッドに寝込むと、科学的にも筋肉量が1週間で10~15%も激減するという報告がある。

これが一月(ひとつき)だと、悉(ことごと)く筋肉が削(そ)げる、と病友が語っていたことが印象深い。

さて、起きて1時間も足を立てていると、次第に怠(だる)く痛くなる。鬱血(うっけつ)して血が上昇していないのだ。

それは、脚の筋肉や腱(けん)が切れたり、落ちたりしているのが原因とか。毎日がバタン・キューの労働生活から打って変わっての今。

リハビリのやり過ぎは炎症を招き、逆に足を横にして回復を待つと今度は筋力が低下する、その微妙な反作用のバランスを取るのが隔離入院。

食べては寝るしかなく、当然余剰エネルギーが不眠を招く。ここで睡眠不足になるとは! 成程、これが「不眠症」というものか。体を動かさぬ贅沢病・現代病である。

そこで、気付く。人生、極端に何かをすることは意外に容易だ。

ホドホドの所で手が打てるか。何事もなく見える中庸・中道こそ難しい。

人生遅まきながら、そこに長続きのコツ、より深く生きるテーマが見えてきた。それは食事でも、生き方でも。

10日間で退院とは、とんでもない、それは傷口が塞がる目安で、「これからが勝負、回復に長い時間がかかりますョ」と聞いて、前途がクラクラとした。

「えぇ!帰ってすぐ仕事できないの?」

「そんなことしたら、また躓(つまず)いて重症になります!」と切り返された。

ことに田舎や畑の凸凹の地は、危険度一杯の無法地帯という。根性でリハビリはできず、時間をかけながら炎症を取り、筋肉を徐々につけるのが最速最先端の療法らしい。

今回の事故、「急(せ)いでは事を仕損(しそん)じる」。リハビリに努めて、身体髪膚の親恩に報わねばならない。

この事故を聞き、多くの方々に日々援農に来て頂いているとのこと。

しかも、甚(はなは)だ捗(はかど)っているとのこと、有難くも、申し訳なさで一杯です。この場を借りて、心よりお礼申し上げます。

十一、一日も早い復帰へ

今回、何よりも、家内には何倍もの負担をかけて申し訳ない。

私が代わって、半日でも一日でも、このベッドで休ませて上げたい、と思うこと頻(しき)りだった。

2月の苗造りから一日も休みなしで働き続けている。農作業の上、毎日見舞いに仁木から小樽通い、疲労の上に疲労が重なり、これからが心配でならない。

掃除洗濯炊事から何から彼(か)にまで、すべてこなした上に、私の弁当作り。私が居ない分、朝が一層早く、夜がさらに晩くなる。

「大丈夫かなー、持つかなー」と、思うばかりである。倒れなければいいが。

二人が動けなくなれば、出荷停止どころか、これからの見通しがまるで立たなくなる。

後が居ないことが、これほど逼迫(ひっぱく)するものかと、今回のことで身に染みた。

(兎に角、一日も早く、畑に戻らねば………)と、病院のベッドで徒然(つれづれ)を書いている場合でないとは百も承知としながら、どうすることも身動きの取れない我が身の不自由を嘆きながら、天に任せる他(ほか)なく、退院の日を待ちわびる今朝である。

これまで、何か事件があると、次への胎動が始まっていた。今回は、何であろうか。

ともあれ、大難が小難に収まった無事を感謝し、次の新たなる出立(いでたち)の朝(あした)を待ちたい。

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。