札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム
一、「水の記憶」ペットボトルから
「わぁー、五臓六腑に染み渡る、旨い! 何だろう、これは?」
今夏は、暑かった。援農の方が下さったペットボトルのジャスミン茶。
滅多に飲まないこの類(たぐい)の飲料水に感銘したのは、初めてだ。
不思議に思い、ふとラベルを見ると恵庭岳伏流水とあった。
「あぁ、実家の水だ!そっかー、そうだ、そうだ、これだ!!」
と咄嗟(とっさ)に、アリアリと幼き日々が蘇った。
ジャスミンの香りを差し引いても、そこには紛(まぎ)れもない故里(ふるさと)が匂い立っていた。
水にも、味がある事を、この時ほど鮮烈に覚(さと)ったことがない。
「懐かしいな、懐かしいなー!」
それからしばらく、コンビニ通いで、そのジャスミン茶を飲み続けた。
「鮭が、どうして母川に帰り着くのか?」
その時、鮭は川の水の味を嗅ぎ分けて戻るのではないかとさえ思った。(私の何もかもが、この水で造られている!……)
18歳で北海道を出るまで、手押しポンプで汲み上げる井戸水を飲み続けていた。
その頃、実家で水道は引いてなかった。町もそんなインフラさえない時代だ。
隣の敬(きょう)念寺(ねんじ)との境にサラサラとせせらぎが流れていて、境内で遊んだものだが、その湧水を飛んで渡った微かな思い出。
戦前の活動写真のようにフヮーとした霧に包まれ……。
この水の記憶に誘われて、実家の故里・恵庭を思わずにはいられなかった。
二、故里の由来
恵庭は、アイヌ語で恵庭岳を指す「エ・エン・イワe‐en‐iwa」(頭が・尖っている・山)に由来するという。
生まれた時、その地区名が漁(いざり)町(まち)だった。
これもアイヌ語で、「イチャニichani」(鮭・鱒の産卵場)という。
海もないのに、どうして漁なのか、と子供心に思ったものだが、目の前を流れる普通の川幅に鮭が大量に遡上して、「手で簡単に掴めたんだゾ」と、亡き祖父が語ってくれていた。
その流域にはアイヌコタンが点在していたらしい。
彼の北海道の名付け親、蝦夷探検家・松浦武四郎が、ここ漁を再訪してこう詠んでいた。
今も田園風景は続き、街の2/3は森林で、周りに何も遮(さえぎ)るものが無く、恵庭岳・風不死(ふっぷし)岳・樽前山を遥か遠景にして、ただ広い空が一杯いっぱい拡がるだけの原野だった。
この歴史のない、何もない故郷に、若人を繋ぎとめるには、余りにも何もなかった。
三、カリンバ遺跡
しかし、15年ほどして心に傷を負い、内地から再び故里に舞い戻って来た。
その後、札幌に出て、自然食品店「まほろば」を開いて今日に至るのだが、その後、驚くべきことを知った。
『ヤマタイカ』など数多くの名作を世に送った漫画家・星野之宣氏が店の近くに在住されて交流が始まり、その著書『宗像教授異考録』を出版される度に戴いていた。
その中に、恵庭に何と「カリンバ遺跡」なるものが描かれ、その発掘品の中に「日本一古い漆(うるし)の織物」があったと、当時の報道記事を読んだ。
1999年は、私が丁度エリクサーを世に問うた記念すべき年で、こんな事跡が大発見されていたとは、全く気付かなかった。
それは、自分にとって手付かずの真新しい町と思っていた所が、実は蓋を開けてみると、京都・奈良の古都より、卑弥呼や邪馬台国より歴史のある日本一古いと名の付くものが発掘されたことの驚きは如何ばかりであったか。
アイヌが原住民であったと思っていた先に、「縄文文化があったのか?この地に、この北海道に? なぜ?」歴史に甚だ無案内の私にとっては、衝撃の事実であり、混乱であった。
だが、それ以上の追及は、素人に探るべき手立てを持ち合わせていなかった。
四、幼き日々
カリンバ遺跡から地続き、昼なお暗き鬱蒼たる恵庭公園は、幼き自分にとって精霊の森、正に幻想のトトロの杜。
その杜の奥に、1・2年生担任の草薙(くさなぎ)宏(ひろ)昌(まさ)先生が住まっておられ、休みの日には2㎞ほどの道程(みちのり)を通い続けた。
絵を習って『ちびくろサンボ』の紙芝居を作り、粘土細工で人形劇の人形を作り、昆虫や植物採集に夢中だった。
柏やカエデの秋の色着きに子供心ながら溜息を吐いて標本にした。
これまでの人生で、最も深く落ち葉を感受していたのではなかろうか。
この手付かずの原始の杜が、どんなにか情操を育んでくれたことか。
その裏に在る丘陵地帯で、今は恵庭温泉「ラ・フォーレ」の主(あるじ)、同級生の水高君と一緒に石器・土器掘りに夢中になっていた。
しかも、数十年経って帰郷後、ユカンボシ川の続きが父の所有地で、そこで家内と初めて北海道で畑を始めたメモリアルペースでもあった。
この地で初めて栽培したのが白菜だった。今になると、何故あそこだったのか。
国立公園・支笏湖とも近く、千歳市内から湖に向かう横を通るママチ川には、何とも言えない独特な情緒があって、いかにも知里(ちり)幸恵(ゆきえ)さんが描くアイヌの河畔が在り、そこを舞台にあの『コタンの口笛』が石森延男さんによって書かれた。
記憶は薄らぎ、幼い頃見たその映画の内容は思い出せないが、アイヌの姉と弟が差別に遭って苦しみながらも健気に生きて行くシーンが点描のように残っている。
五、アイヌの人々との交流
その後、店を切り盛りする中で、さまざまなジャンルの方々と交流を持つことになる。
17年前、黄金比でまほろば本店を建築移転し、その地下洞の中心地を掘った折、ハート型の石が発見された。
そこで、それを祀る聖域を設(しつら)えようと思い立った。
その後の不思議の連続は割愛するが、その場は何かの祭祀場跡ではなかったか、と信じるに至る発見の連なりは、正にドラマであった。
余りにもピタピタと嵌(はま)る地形的構造やレイラインの一致に瞠目(どうもく)した。極めて興味深い内容を認(したた)めた一書があるので、それに譲りたい。
アイヌのあの文様は、ケルトなど世界各地に伝わる伝統文様に共通するスパイラル構造に一致する。
古代の感性が、自然のエネルギーを捉えたシンボリックなデザインに、根源的な生命力や神々をイメージするのは自分ばかりではないだろう。
ケルトのデザインや、まほろばの「無限心/むげんハート」の無窮の宇宙に延びる黄金比に通じるものがあって共感するのだ。
そんなアイヌの存在が、生まれた時から身近に居たことを、嬉しく誇りに思っている。
これを、人の魂の底に眠る同一性、そしてそこから分化する多様性と捉えている。
一即多という真理だ。元を辿れば、みな同じだ。よく言う「みんな違って、みんなイイ」という標語そのものだ。
そんな中、まほろばスタッフが居た。彼女は不思議な子で、不定期にまほろばでバイトをしながら、世界の先住民族の秘境を回り、ヒョイヒョイと現地の人々と仲良くなってしまう、という得意技を持っていた。
英語も見事なもので、スルスルと流れるように言葉がついて出て、現地の人ともすぐに一体化してしまう精神性というか、魂の持ち主なのだ。
その通称ワコちゃんが、道内のアイヌの有名な方々を、まほろばに次々に紹介してくれた。
そして、アイヌの民話や語り、音曲等々、当時盛んに、この地下洞で催し物(イベント)を開いた。
六、先住民サミット
2008年に、「G8(主要8ヶ国首脳会議)」が洞爺湖で開催され、それに合わせ、日高と札幌で「先住民サミット」が行われた。
その日国会で「アイヌは日本の先住民族である」ことが採択され、「日本は単一民族ではない」と宣言された。
私たちも大いに祝い、みなと歓喜したのだ。
これまでの閉塞感が開かれた輝く思いは、サミットの会場に居て肌に感じ、彼らの歓びを我が歓びにした。
その後、ネイテブ・アメリカンの長老方々が「無限心」を尋ねられ、語りの会も催した。
そして、正式に令和元年5月に「アイヌ新法」が制定された経緯がある。
そこに何の疑問も抱かずに、どうして祝福できたかは、子供の頃から、「和人(シャモ)がアイヌを虐(いじ)めてた、その土地を奪ったからだ」と、教え込まれていた潜在意識の所為(せい)かもしれない。
何かしら日本人として後ろめたい気持ちが幼心の中にも芽生えていて、それが報われた、開放された、との共感を抱いたからだと思う。
それは、道民の心の中にもある蔭ではなかろうか。
しかし片や、祖先はこんなにも悪人だらけで、悪事ばかりを、一方的にしていたのかなー?また、出来るものかなー?と、漠然たる思い、釈然としない思いで、子供心は揺らいでいた。
しかし、真相を知らされることはなかった。
今にして思えば、それが、自虐史観と言われる教育の実態ではなかったろうか。
七、アイヌとは?素朴な疑問
だが、年を経て、場を変え、改めて、「先住民とは何だろう?」という素朴な問いかけが、自分の中に起こっていた。
北海道の青空と大地の下で同じ空気を吸い、この生を受け、この地で育った、何というか言葉に表せない共有感があり、本土の人には理屈では分り難いものがあるのも確かだ。誰もが、そうではないだろうか。
ここ仁木・余市の後志(しりべし)の湿った風土は、恵庭・千歳から白老・日高の乾いた感覚とも違う。
だが、同じ北国に共生する思いは、生まれた時より何かしら連帯感がある。
しかし、子供心に、大人同士の差別感、言うに言われぬ空気も、肌身に感じていたことも確かだ。
でも、仲良く出来ることには、全く違和感がなく、とても嬉しいこと、まさに同郷の好(よしみ)なのだ。
とは言え、「アイヌ民族」というレッテルを敢えて張ることで、今までになかった新たな壁、今更ながらに、何というか、心の壁が出来たことに、「何か違うな」という違和感も、確かに生まれたのだ。
抑(そもそ)も、時代も時間も流れ、アイヌの血は流れていても、純潔なアイヌという種族が存在するのだろうか。
この問いかけは、偽らざる疑問でもある。
これまでに、多くの華僑や在日、欧米の二世や三世の人々とも付き合ってきたが、敢えて〇〇民族、〇〇種族という区別で分け隔てしたこともなく、恐らくこの先、何百年、何千年先には、混血が深まってその境がなくなるだろう。
小学校6年生の時、アイヌや黒人問題で、小説家で担任の村上利夫先生が「人類みんな混血すれば、問題はなくなる」と語られた言葉が、今も記憶に残っているが、正にそうかもしれないし、多分そうなるだろう。
日本人自体がそれだ。縄文文化圏の日本に、弥生人や他人種が渡来し混淆して、今の日本人が形成されて来た、と教えられては来たが……。
明らかに違う骨格や顔の造りは人それぞれとはいえ、「私は縄文民族で、先住民だから先住権がある」とは誰も、今主張しないだろう。
現実的に、アイヌの人々も日本人と結婚を重ねて血がドンドン薄まり、もはや同族近親だけの生粋アイヌと言われる人は居ない。
この先、もっと居なくなるだろう。いずれ区分けが出来なくなるだろう。
そうなれば、差別も区別もなく、みな兄弟になる訳だ。
例えば、料理家の平野レミさんなど、旦那がイラストレーターの和田誠さんで、彼女の祖父がフランス人。
だが、早口の彼女の身振り手振りからその面影は、微塵も感じられない。
彼女は、「私はフランス人よ、ラテン民族よ」とは主張しないだろう。
アイヌの知人が少なからずいるが、阿寒湖にムックリの名手・郷(ごう)右近(うこん)富貴子さんは、北の吉永小百合さんと独り思っているが、顔立ちがエキゾチックではあるが極めて日本人的でさえある。
ことさらどちらとも言えず、これからもご子孫はより日本人化して行かれるだろう。
どうしても近視眼的に、情緒的に、感情論や政治的思惑があって、真実と離れたところで、別な闘争と言うことに陥りがちになる。
それは、避けたい。
今まで、身近に居た仲間と、仲違いはしたくないのだ。
友は、アイヌ式で結婚式を挙げたくらいだ。
これは、あくまでも冷静に、事実のみを追って行って、両者納得できる落し処を、素人の私が見てみたいと思っている。
それは、やはり客観化、遠望することではなかろうか。
過去も未来も、遠くを見据えることから、真近に見えてくることが、真実を手にする友好の手立てだと信じられるからだ。
これには、誰もが異存ないことだと思う。
それには、二つの客観的手法がある。
一つは、歴史的認識。
二つには、科学的認識。
この際、思想信条は主観的判断で、ともすれば感情論・利害関係の弊に陥り、対立するので、除外する。
一も二も、説けばとても手に余るほどの分量と学識になるだろうから、私の身近な出来事から掘り起こしたい。
八、アイヌは、たった800年前から?!
「アイヌは、ほぼ800年前に、オホーツク人が、サハリン・カムチャッカの沿海から北海道に渡来して、縄文人を駆逐して混淆した種族である。それ以前には存在していなかった」と言う歴史上の学術的共通認識がある。
その定説を知らなかった。
つまり、鎌倉時代後期以降に渡来した種族であって、紀元前のズーッと古からの原住民ではなかったのだ!!
意外に新しいのには、心底ビックリ仰天。
みな多くは、周知のことであろうが、自身の無知無学を恥じた。
実は内心、「アイヌ一万年祭」を催すほどのことだから、腰を抜かすほど驚いたのだ。
我々を糠喜びさせたものは、何だったんだろうか。
あえて「アイヌ新法」まで制定した政府は、キチンと学術調査を精査した上での結論だったのだろうか……。
それで、納得したのは、故郷・恵庭の子供時代なのだ。
漁町の漁川で鮭を獲っていたのはアイヌ人、友と黄金町で発掘していた石器・土器も彼らのものと思い込んでいた。
もう60年も前の子供の結びつかないあやふやな理解だった。
地層が下にある遺物は、ズーッと古い縄文文化が、この地に在ったのだ。
なるほど子供の不確かさが、今になって氷解した訳だ。
確かに、アイヌは石器・土器・鉄器・漆は作らないし、使っていなかった。
祭祀道具は和漆器だし、刺繍地も和織が多い。
言葉も、アルタイ語族とオーストロアジア語族で原語系統も全く違うし、ましてや文字が無い。
採集漁労狩猟で、農耕文化がない。さらに人骨や遺跡・古墳が発掘されたという話題を余り聞かない。
九、太古へのあこがれ
古代の日本に憧れて、古都奈良に向かったのが18歳の時。あれから50余年の歳月が経っていた。
探しに探して未だに掴み切れていない古代の心を、ここに、とうとう見つけ出した。「青い鳥」は、足元で巣籠(すごもり)しながら、待っていてくれたのだ。
それは、伊勢・出雲の大社でもなく、四大文明の河川でもなく、殷周の先の神話時代より先の先から在った。
それは、私が生まれ育った町にあった、故郷に在ったのだ。
名も無き北海道の片隅の、我が町にすべてが在り、すべてが揃っていたのだった。
子供の頃に吸ったあの清々しい空気、広々とした視野、360度見渡す限り何も遮るものの無い空間と時間が私を育ててくれた。
●恵庭の古代史
①800年前の鎌倉後期に、オホーツク文化人(近世アイヌ)が北海道に南下したが、居住跡は縄文遺跡の上に在った。
②1300年前の擦文期の古墳が、将棋の得意な平野君が住んでいた柏木で発掘。
③2400年前の続縄文期の墓地が、我が家の菩提寺・大安寺のある茂漁で発見。
④3000年前の縄文晩期の赤ちゃんの手形足形が、陸上自衛隊駐屯地のある柏木で発見。
⑤4000年前の縄文後期の日本一古い漆製品が、カリンバ遺跡から出土する。
そこは大人(おとな)しい大坪君が農業やっている黄金町だ。柏木では、縄文最大級の漆の布製品が出土している。
⑥5000年前の縄文中期の集落跡を島松沢で発見。彼のクラーク博士が北大生と永久の別れ、中山久蔵翁が北地で稲作に成功した地で、母方の祖父の造園畑を借りて、まほろば農園を始めた場でもあった。
⑦6000年前の縄文前期の最古の漆製品が、姉が塾を開いている西島松で発見され、
⑧9000年前の縄文早期の竪穴住居が、今、母が住まう近くの柏木川で見つかり、水高君と土器発掘に夢中になっていた恵庭公園の丘陵地帯は、この頃の生活跡だった。そして驚くなかれ、
⑨30000年前以降の旧石器時代の石器が、戸磯のユカンボシ遺跡で使われていた。
何とそこは、36年前、家内と二人して内地から来て初めて農業を始めた処女地で、父親の所有地。
その後、キリマンジャロ温泉が噴き出したその畑の横をユカンボシ川が流れていた。
何と象徴的な出来事だったろうか!
3万年の遺跡が眠れる地の上で、二人のスタートが切られたのだった。
みなそれらの地は、私の記憶の中で知り尽くした土地だったのだ。
幼な友達が住んでいた地域だった。すべてで137ヵ所もの遺跡が発掘され、いずれも、青森の三(さん)内丸山(ないまるやま)より、九州の吉野ヶ里(よしのがり)より、論争の邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)よりも古く、既に集落があり、擦文文化の当時は、本州との中心的交易の文化都市というから、さらに度肝を抜かれた。
そのユカンボシ川のすぐ隣が千歳市、約5、6㎞の処に柏台1遺跡があり、そこから道内最古の約2・45万年前の細石刃が発見された。
すぐ近くだから恵庭縄文人も、細石刃を使っただろう。
ロシア極東が1500年後、本土には4500年後の発見というから、正に北海道から発祥して国外に国内に文化が伝わったことになるのだ。
発掘された漆櫛(くし)の造形のモダンさ、色の鮮やかさ、何と現代に通じるオシャレでハイセンスなんだろう、と感心するのは私だけだろうか。
石の首飾りは、今でも身に着けたい衝動に駆られる不思議な魅力と光に満ちている。
その一つの石は、様似産の橄欖(かんらん)石(せき)ペリドットで、エリクサーにも使われている。
女性もときめく調度品からシャーマニズムが盛んで、多くの卑弥呼たちもいたことだろう。
今以上のスピリチャル世界だったかもしれないのが、愉快だ。(※ぜひ、以下恵庭市のサイトをご参照ください。http://opac.city.eniwa.hokkaido.jp/archive/karinba/index.html
さらに、あの西(スペイン)のアルタミラや佛(フランス)のラスコー洞窟の壁画の15000年前には、恵庭で石器が使われて生活して居たんだから、それを知った私は打(ぶ)っ飛んだ。
まだアイヌも先住なんかしていない、彼ら縄文人が、正真正銘の先住民ですから。
自分で、故郷恵庭の歴史を、年表にして鉛筆で辿ってみた。
それが、これである。
等間隔の時間系列を視覚的に見ると、自他ともに更に解り易い。
30000年前と800年前とでは、こうも違うのだ。
1/40のスパンだ。
アイヌの出現は、極々最近なのだ。
十、アイヌの渡来
私たちが入植した、そのユカンボシ川添えに、アイヌの住居チセ跡が発掘された。
その建造物自体、構造が全く違う。先住以前の竪穴式は、基礎の柱の土堀が本格的で、とても継承しているとは思えない。
文化形態が異なる種族であることは、素人目からも客観的事実なのだ。
旧石器時代の岩宿人、次に縄文人、そして擦文人、その後、内地では渡来系弥生人の時代を経て、現代に至る日本人の系譜。
つい最近の800年前の鎌倉後期、源平合戦や元寇の乱の最中に渡来して混血を重ねたのがアイヌとされている。
中国はモンゴル帝国の元朝(1271~1368年)時代で、その『元史』に骨嵬(クガイ)・亦里于(イリウ)(ツングースク系アイヌか)と言う名で歴史書上初めて登場するアイヌが、元に服属する吉里迷(ギレミ)(ギリヤーク、今のニヴフ民族)が疆(きょうかい)を侵(おか)すと元に訴えた為、フビライ・ハンがアムール川下流域に進出して至元元年11月辛巳(1264年)に骨嵬を征した、とある。
サハリン島(樺太)から宗谷海峡に追われて南下して北海道に渡ったのが鎌倉後期(1185年~1333年)と言うのは、時系列では合致する。つまり、東シベリア➡樺太➡全道へと拡がった。
大まかにはシベリア沿海州、サハリン、ベーリング、オホーツク沿岸の原住民・少数民族との混淆を重ねオホーツク人が、北海道に渡来前後、北方縄文人と混血した結果が近世アイヌと言われている。
細部は不明でも、大局は渡来人であることには変わりない。
当時、既に神社もあり、墓地もあり、在住の北海道縄文人が既に全道にアイヌ以上に定住して居て、江戸初期には和人が4万人、アイヌより4倍住んでいたとの記録もある。
必然的に縄文文化との交渉があり、何らかの日本的片鱗がもっと昇華された形で遺るべきだが、言語形態も悉く違うとなれば、それはごく近代で、交戦的征服も推察出来るのではなかろうか。
オホーツク人は、相当気が荒く凶暴性で、忽ちのうちに全道を制覇征服したのではなかろうか。
遺跡的には、擦文文化が忽然と消え、後にアイヌ文化が忽然と現れているからだ。
アイヌは「チャランケ」、つまり専ら話し合いで物事を平和裏に解決すると聞いていたが、意外にも戦闘的記録も道内各地に少なからず遺っている。
殊に、熊狩りにトリカブトの根の毒を塗った「毒矢」を使ったために恐れられ、東北・北日本で勢力を拡大していったという。
既に、『日本書紀』には飛鳥・斉明天皇期3(658―660)年にかけ、北方の異国外敵の脅威から防備すべく阿倍比羅夫が越州(北海道・樺太)征服の将軍になって大遠征した記載があり、今ニセコ比羅夫の名残として残っている。
道内の地名がアイヌ語全てではなかった。
しかし、書記には関東以北の縄文人・蝦夷(えみし)(これをアイヌと解釈する学説もあったが、今は判然としない)やオホーツク文化人、樺太のニブフや、東部沿海州の粛(みし)慎(はせ)の記載はあるが、明らかなアイヌとしての記述は無い。
部族間の近親結婚は専らだろうが、酋長などは何十人と多妻で、原地の縄文女性との間にハーフが生まれ、更に何世と生み続ける。
仮に、800年間の今日までズーッと混淆したと仮定して、一人の生殖年月は一世30年で、30年×26・6…回≒800年。
およそ、27回ほど日本人との婚姻を重ねると、かなり血が薄まって来る。
更に、現在の一人から、源頼朝が鎌倉幕府を開府した(1192年・建久3年)頃の約800年前(27代前)に遡ると両親の数も268435454 人(「(2のn乗-1)×2」)。
2・7億という途方もない数になるが、逆に子孫の数に置き換えると、血の薄まりがイメージ出来る。
確かに、アイヌの方の顔は彫りが深く、美男美女が多い。
だが、最近頓(とみ)に、若者の外見ではほとんど気付かない場合が多くなって来ていると思いませんか。
つまり、言いたいのは、最早、特別視するアイヌは存在せず、アイヌ系日本人、アイヌ的日本人という認識で、イイのではないかと思うのだが。
婚姻する相手が、必然的に日本人が多くなり、経年益々血が薄まる。
アイヌ語を話さず、チセに住まず、ウバユリの澱粉も食さず、寧ろ日本社会にスッポリ溶け込み、現代文明を享受している。
そこには、差別も、区別も、権利も、闘争もない。日本人と同じ一視同仁の世界があるだけだ。
そして、一切は揺蕩(たゆた)う長い時間の潮流が、一時の民族や國という概念を変えて行く。
先住も後住も、真理の前には一時の現象でしかない。
アイヌの無所有、一切はカムイ=神のもので、人のものではないという伝承こそ、大和古来の生きとし生けるものすべてに八百万の神々が宿る思想と、寸分違わずシンパシー同調しているのだ。
これが、日本人もアイヌも魂の奥底では全く同じで、問題なしでOK ではな
かろうか。手を繋ぐだけしかない。
十一、遺伝子解析による解明
そもそも、先住民という学術的定義がないという。
例えば、何千年前からとか、そこの地域限定とか、一定の環境条件を特定させた世界統一の規定や見解がないのが現状。
そういう混沌とした時にこそ、科学的メスを入れて、頭を冷やし静かに客観視する必要があるのではないか。
これは、決して先住民やその文化を否定している訳ではない。
むしろ肯定、残すべき文化の大切さをこれまで強く訴えて来た。
「日本人は、何処から来たか?」
「人類の始原は?」
この歴史問題は、何時(いつ)何処(どこ)でも起こり、枚挙に暇(いとま)ないほど今日まで、侃々諤々(かんかんがくがく)、歴史学者や好事家の間で論争が尽きない。
日本人は、騎馬民族である、いやバイカル湖畔から、いやオセアニア・東南アジア、いや中國、いや韓半島、その源流を問うて、結論が見えない。
ところが、そこに楔(くさび)を打ったのが、書籍による文献学でも、遺跡により考古学でもなかった。
全く異分野の医学生物学、遺伝子工学と言う科学的検証によって長きにわたる論争に、グーの音も言わせない結論を突きつけたのだ。
歴史を知らなくても、歴史学者以上の血の系譜が辿れるというもの。
何せ、遺伝子DNAを解析するだけで、人類発祥のアダムとイブまで至れるのだからスゴイ、どう足掻(あが)いても敵(かな)わない。
だが、遺伝子解析も一筋(ひとすじ)縄(なわ)にはいかない。3つもあるのだ。
①は、mt(ミトコンドリア)DNAで、女系を辿るもの。
②は、Y染色体DNAで、男系を辿るもの。
③は、核DNAのゲノム解析で、全体を見渡せるもの。
しかし、この世界も発展途上とはいえ日進月歩、次々と新情報が錯綜している。
DNAは突然変異して異なった遺伝的特徴をもった集団をハプログループといい、その棲み分けで日本人の源流を探る。
しかし、余りにも多岐にわたって複雑で、この稿では説き切れない。
日本人のルーツ、最も興味が注がれ、話題が尽きない。
驚くべき事実も発見され、その全体論は、また別稿で述べてみたい。
今回は、端折(はしょ)ってアイヌに限っての情報を単刀直入に簡明に切り込んで行きたい。
十二、混血説、「二重構造説」の否定
先ず、これがゲノム解析での遺伝子の構成分布図。
今までは、日本にはアイヌと琉球の縄文人が居て、そこに外来渡来人、弥生人が真ん中に割って入って来て、アイヌと琉球人は南北に追いやられた、いわゆる「二重構造説」が主流で、そう教わって来た。
しかし、ゲノム解析では、南方北上して来た脱アフリカのホモ・サピエンスが、東アジア人として東南アジア、沖縄を通り、日本に辿り着いたことが判明。
琉球人と本土日本人は共通因子だった訳です。
「琉球は大陸系だから中国のものだ」との主張は違っていた。
独立した琉球民族は存在しないし、アイヌとも異なる。
弥生の割り込みでもなかった。ではどうかというと、それは混血だったという単純な結論なのです。
一に縄文が弥生に転換した変形説、
二に南北に分かれて弥生人が入った置換説、
三は、縄文と弥生が混血した混血説。
この三の複雑な交雑混血を繰り返しながら統合血統の縄文日本人が純一化された。
それは、南方だけでなく、ほぼ7方向から極東日本に辿り着いた。
それ以上何処にも行けない吹き溜まり、日本は融合するしかなかった。
ある意味、人種の坩堝(るつぼ)だった訳です。
そのハプログループは、mtDNAでは20系統以上、Y染色体DNAでは10系統以上が錯綜合流した多種多彩で、しかも北海道から沖縄まで均一という世界にも珍しい集団であることが大きな特徴なのだ。
アイヌの生い立ちも理解し易い。これが核DNAゲノム解析の結論です。
十三、共通するYAPヤップ遺伝子
そこで先ほどの①の解析法ミトコンドリアDNAハプロタイプのグループで見ると、左下図のようになります。
元々の縄文人にはほとんどないN9bの系統、Y1ハプロタイプがオホーツク文化人に色濃く有って、それが近世に引き継がれ、現代アイヌに半分くらい残っています。
これは明らかに沿海州、サハリン、カムチャッカのオホーツク文化人との混血をした前後に、北海道に入って来た証拠です。
元々、北海道に居住したのではなく、先住民ではなかったのです。
2009年、あの礼文島の船泊で、縄文後期(約4400~3200年前)の人骨が発掘され、ゲノム解析されました。
それは、本土日本と沖縄の遺伝子系統上の先に、その船泊23号の縄文人は居り、オホーツク文化人化したアイヌとは別系統であることが分かったのです。
日本は酸性土壌で人骨発見するのは稀ですが、これは、まだオホーツク人化したアイヌが来て混血されていないことが推測される訳です。
そして、N9bハプロタイプは、ほぼ日本列島に限られており、縄文からアイヌに至るまでの特徴とされています。
沿海州にも見られるため、北ルートで列島に入って来たのでしょう。約2万2千年前です。
また、ハプログループGは、農耕文明人のコーカサスに多く、同じように北海道縄文人や本土日本人に多く、アイヌは極くわずかですね。
これらも農耕民族か、狩猟民族かの違いを表しています。
そして、②のY染色体DNAでは、最後共通してみられるハプログループDこそ、日本人たる所以で、世界には日本列島・南西諸島やアンダマン諸島、チベット高原にしかありません。
古代イスラエル、ユダヤのE系統分岐と同じDは、これが有名な「YAP/ヤップ遺伝子」といわれるもので、縄文人にも本土日本人にも、そして北海道アイヌにもあったのです。
これは世界的にも特異、日本人独自の遺伝子D1a2aなんですね。
このハプログループは、出アフリカからヒマラヤの北ルートから東に移動、3・5万~4万年前に、日本列島に到達した時期と呼応するものです。
アイヌは、日本人であることの証明なのです。
先端遺伝子が指し示す地図は、違いではなく、同系であることの重要性です。
くっきりと違い、くっきりと同じ。
十四、最後に笑顔
北海道に先住したかどうかは、もはや問題ではない、問題外。
小さな、短い、狭い話なのです。
縄文も、アイヌも、沖縄も、本土人も、一緒に彼の大陸から来た同族、仲間だったんです。
手を携え、苦楽を共にしてきた家族なんですよ。
日本列島に先住した同じ仲間なんです。
何を今更じゃないですか。
いがみ合い、罵り合い、争い合うことはないじゃないですか。
同じこの北の大地で、同じ空気を、同じ水を、同じ空を、頂いているカムイの子供です。
八百万のみなみな様たちです。
スッキリしました。
書き初めは、不安でしようがありませんでしたが、今は、ハッキリとハッキリとして、心は晴れ晴れ爽快です。
それは、同じ家族、同じ兄弟だと、改めて認識できたからです。安心しました。
北海道の未来が展望出来たこと、今日は乾杯です。
今はただ、
「イヤィラィケレ(ありがとう!)」
そして
「イヤィラィケレ(ありがとう!!)
(終わり)
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宮下周平
1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。
自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/
無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。
世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。
産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。
現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。