札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム
記憶と前世 まほろば主人
先日、エッセンチアの篠原先生の所に立ち寄った。
何気なく新しい香水を作ろうかと思ったからだ。
出してくれた新しい素材の天然香料。
調香師になった気分で、0-1テストしながら思った。その一つ一つを嗅いで、これだ、これでない、と判断している自分。
この好き嫌いは、果たしてどこから来るのであろうか。嫌いなものでも、製品化されているのはこれを好む人があったためだろう。
それは、経験、言ってみれば個人の過去の記憶を辿っているようにフト思えた。
人は、記憶以外のものはイメージ出来ない。
だから、夢も人生も過去の記憶から生まれた産物に他ならないかもしれない。
気にかかった香料が15種類集まった。
その中でも、フランキンセンス(乳香)とスパイクナルドに惹きつけられた。
聞けば、乳香はイエス誕生に駆けつけた東方の三博士が献じたといわれる香料であり、ナルドは死を迎えるイエスの体を拭うマグダラのマリアが買い求めた一品だという。
一九一二年、ツタンカーメーン発見の時、古い香壺からナルドが鮮烈な臭いを発していたという。
嗅覚は人間の深く古い原始感覚器であるとされている。
イスラエルの写真も音楽も食べ物も聖書も当時を思い出させるには遠いが、これらの香料の一嗅ぎは、ある種、荘厳な実在感を持って記憶を呼び覚ますような鮮烈な作用があった。
これには、驚いてしまった。
この香水を名づけて「ANCIENT WISDOM 太古の叡智」とした。
記憶は確かに、前世に起因しているのかもしれない、とその時思ったのだ。
そこで、初めて前世療法なるものを受けてみた。
最近、精神世界系では、ことに米国で盛んに行われ、日本国内でもかなり拡がっているらしい。
前世と言われると、少し胡散(うさん)臭いな……と思っているほうで、なるべくこの手の世界は避けて来た。
そういう私であるが、若い頃あまりにも関わり過ぎたので、その反動で、いやなのである。
リインカネーションという言葉があるが、転生の教義がないキリスト教圏で、前世云々の事が、まことしやかに行われていること自体、驚くべき時代の変化である。
ベトナム戦争で荒廃した米国に、インドやチベットの僧侶が渡り、仏教やタオイズムを布教し、いわゆるニューエイジが西海岸から台頭して、あのヒッピー達が厭世的な生活をしていた頃、私の青春があった。
その種がさまざまな変遷を遂げて今日の精神世界系社会というものを作ってきた。
転生思想は欧米社会では、たかが30~40年の歴史しかないが、東洋の仏教圏においては2千年の潮流がある。
ことに日本の室町鎌倉時代には輪廻転生思想や浄土往生願望が庶民に拡がって行ったので、日本人の遺伝子の中には相当根深く転生への受け皿が出来ているのではなかろうか。
唯識学の仏教深層心理学では、第八識・阿頼耶識と呼ばれる意識層が「輪廻の種子」と呼ばれて、過去無量劫来(永遠の昔から)その生その生に経験した一切の情報が全て詰め込まれている、という。
その内容によって行き先が決まると教えられている。いわゆる四生六道であるが、果たしてどうであろうか。
しかし、前世転生と言われると、どうも暗くじめじめした感じの印象があるので素直に入ってこない。
ほとんどの人は、人生は楽しく愉快だと思って過ごしているのは稀で、皆苦労の連続で二度と同じような人間には生まれたくないと潜在意識で思っているためではなかろうか。
人生は修行の学び舎だと言われるが、現実多くは生活のために働いている。
その日、まほろばの2Fで米国からいらっしゃった女史の誘導で「前世療法」は行われた。
何人か横になって催眠状態に入ってゆく。
果たしてそれが催眠状態なのかどうかは分からないのだが。
すると、自分の頭の中で、さまざまな過去世のステージが現れてきた。
最初、広大な雲海の中でグルとおぼしきタゴールのような白髪の老人と中性的な若い私の二人が眼下を見下ろしている光景が出て来た。
次は、中国西湖のほとりであろうか、茫漠とした霧が立ち込める中で古琴を弾じている老人の私が座っている。
神韻とした音が虚空に鳴り響いているのが聴こえる。
そして、場面は打って変わって中世ヨーロッパ。
石畳の暗い蝋燭の灯る部屋で、何やら試験管を振っては覗いている。
辺りは古書の山である。これは錬金術師かな… 最後に、それは印度の仏堂の広間かもしれない。そこで目の大きな兄弟弟子が私を見ている、これが今の家内であると直感した。……
そうして目が覚めたのだが、その生その生に無上の幸福と充足感を感じていた事が分かった。
それぞれにそれぞれが完結した印象があった。
それがあったから、今があるのか、今が反映されてそういうヴィジョンが現れたのかは、判断出来ない。
総じて思ったのが、死も悪くないナ、と言った人生肯定的な観じ方が支配したことだ。
そして、一つ一つの生で完結した仕事や技術は、今生履修するも長くやらないようだ。
私は、大の勉強嫌いで、コツコツと積み上げることが苦手なのだ。
どちらかと言えば、演繹的よりも帰納的な生き方をしている。
バッと掴んで結果を出し、理由は後からついてくるといった感じである。
エリクサーの事でも、学んで出来たのではなく、出来て学んだと言うほうが正確である。
そして、その素地が全て前世にあったのかもしれないというのが、今回の体験であった。
そして、面白いことにある時、友人がカバラの占いと言うものをやってくれた。
「あなたは人との交わり方を学ぶために今生がある」と言われたことがあった。
数霊術の方からも同じように言われた。
確かに、生まれた時から、多くの働く人の中で育ち、若い時も孤独ではあったが多くの人達に囲まれており、そして今経営者として多くの人と働きお客様と関わっている。
生来、孤独性で人との交わりは大の苦手なのだ。それでもこういう立場に置かされている。
商売、経営と言うものは最もやりたくない類で、出来れば一人静かに芸術でもたしなんでいたかったが、天は許してくれなかったのであろう。
それらのヴィジョンは果たして真なのか妄想なのか、分からない。
ただの自分が描いたイメージでしかないのかも知れない。
しかし、こういう面白い体験をしたことがあった。
ある夜中、訪ねて来た友人が帰った後、茶の間でウトウトと眠りかけていた。
起きるのでもない、眠るのでもない。
周りの様子は分かっているが、眠りの入り口で立っている自分があった。
その時、突如前額にスクリーンが現れ、一つ一つの意識が、映画のように映し出されるではないか。
その朦朧(もうろう)とした脳細胞のせいか、映像が細切れ細切れで、まるで昔の活動写真のように一コマ一コマゆっくりスローモーションで動いている。
それが、眠りが次第に深くなるにつれ、次第にスムーズに回り始め、やがて覚醒時の外景そのものになって、自分がその中の人物になってしまっているのだ。
「ああ、これが夢の実体か!」
と客観的に認識出来る自分が居た。
こちらに、意識の映写機があり、向こうに五感感覚器のスクリーンがある。
そして、その意識の細かな変化に応じて、映像がどんどん思うように変化して行くのだ。
これは、面白いと感じた。
人生や自然は夢・幻のようなものだと古人は言ったが、本当にそうかもしれない。
あるいは、日常の一つ一つは、意識が映し出す夢そのものかもしれない。
あのプロスキーヤーの三浦雄一郎さんが、ヒマラヤ滑降で岩にぶつかり大転倒して死を見たとき「人生は夢だ!!!」と直感的に悟ったと、後日語っていたことが印象的だった。
夢か…。夢なら良い夢を見たいものだ。
誰もが思う、幸せで自由な夢を。
どんな辛い悲しい苦しい人生であっても、最後は誰もが、楽に愉しく有難くあの世に逝けるのではなかろうかという印象は一つの祝福であり、人生を積極的に前向きに生きる標ともなったかも知れない。
今、こう皆と共に働き、多くのお客様に支えられている自分に感謝したい。
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宮下周平
1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。
自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/
無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。
世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。
産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。
現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。