札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム
一、防人のうた
鯨魚取 いさなとり
海哉死為流 うみやしにする
山哉死為流 やまやしにする
・・・・・・・・・・
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべてのイノチに限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください
・・・・・・・
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか
さだまさし:作詞作曲「防人の詩」から
読人不知(よみひとしらず)の万葉集を元歌とした、さだまさしの名曲「防人の詩(うた)」。
1980年公開、映画『二百三高地』のテーマ曲でした。
その当時、戦争賛美とか、右翼傾倒とか、いろいろ物議をかもしましたが、40年の風雪に耐え、今なお心に深く沁み入る名曲として遺りました。
それは、戦争と生死、国々を超えた人の心の奥底に訴える、何かがあるからではないでしょうか。
二、『二百三高地』
私はこの八月で、古希七十歳を迎えました。
ちなみに「古来稀なり」で七十ですから、経験知識が数多(あまた)あるはずですが、少し上の団塊の世代でも、太平洋戦争のこと、ましてや日清・日露の戦いなど知る由(よし)もなく、戦争体験の無い世代が、これからのお爺ちゃんお婆ちゃんの時代となるのです。
どのような見識と覚悟を以て後代に語り継ぐのか、正直歯痒(はがゆ)くも戸惑うばかりです。
誰しもが平和を希(こいねが)い語るのは、正しくも当然であります。
恒久の平和と不朽の幸福を願わない人はおりません。
しかし、コロナ騒動から始まった世界が大激変する今日、安穏と事勿れ主義で、無事で日常をこのまま過ごせなくなって来ていることも確かではないでしょうか。
戦争を回避し反対するのは、誰もが同じです。
だが、あの防人の歌の万葉以前の太古から、戦いの中で歴史は刻まれ続け、戦後わずかな不戦の日々があったに過ぎません。
それを、どう見つめ、どう防いで次代の子孫に繋ぐかが、今生きている私たち大人の責務であるべきと信じます。
止む無き戦争の中で、日本人としての生きる覚悟や、古人の心の美学を学んでいきたいと思うのです。
この「203高地」も、本当の意味を知らない方が多くなりました。
日本が遼東半島や南西諸島を侵略した非道な民族であるとの自虐史観を戦後教育で植え付けられて育ってきたからです。
当時、欧州の列強やロシアが利権を求め、競って文明後進国を植民地化し、有色人種を奴隷化する競争は拡大し尽くして、遂にアジア一角だけになり、大詰めを迎えていました。
ロシアの南下政策も南西諸島の侵略も、日本にとって、次は我が身と言う危機感に迫られていたのです。
ロシアの日本に対する攻撃拠点となる遼東半島は、何としても死守する必要がありました。
戦争ですから、様々な負の側面はあったとしても、それが本質ではありません。
日本侵攻への防衛であったことを、正しく認識する必要があるのです。
この朝鮮・満州の支配権を巡り、明治37(1904)年に起こった日露戦争。
この中国遼東半島・旅順の難攻不落の海抜203mのロシア帝国軍の要塞を突破した時の象徴が「203高地」。
それは、「世界の奇跡」とまでいわれ、日本の名声が一挙に世界に知れ渡る切っ掛けともなりました。
何故なら、初めて有色人種が白色人種に勝った、東洋人が西洋人を負かした戦いであったからです。
第二次世界大戦には全敗しましたが、有名な歴史家、アーノルド・J・トインビーをして次のように言わしめています。
「日本は第二次世界大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。
それまでアジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は実際にはそうではなかったことを、人類の面前で証明してしまった。
これは、まさに歴史的な偉業であった。……日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に終止符を打つことをなしとげた。」
―アーノルド・J・トインビー 英紙『オブザーバー』1956年10月28日
世界最強の軍隊とバルチック艦隊を擁する大ロシア、世界の誰しもが島国日本は当然負ける、どう見ても勝ち目のない負け戦だった訳です。
米と絹で明け暮れていた総人口4千6百万人の弱小国日本。国力差は面積60倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1・7倍、初めより無謀であり、当時無策ともいえるものでした。
魁(さきがけ)に、乃木希典(まれすけ)将軍は、日清戦争を一日にして決着を付け、旅順を奪回します。
その勲功に日露戦争の大将にも抜擢されました。しかし、海戦に臨むも寸効ないまま、徒(いたずら)に日数(ひかず)を重ねます。
バルチック艦隊が日本海に到着する前に総攻撃し、高地から旅順港を制海する作戦。
旅順への上陸でロシア軍の陣取る203高地を直進する熾烈な奇襲。乃木第三軍の強行突破しかありません。
その間五か月、兵士1万人以上を無駄死にさせたと、味方の軍部、祖国の国民から批判非難されて、乃木は窮地に立たされます。
しかし、時間もなく、追い詰められた死力を尽した一点突破の逆襲により、難攻不落の敵城も遂に陥落。
小国日本が、巨大ロシア帝国を打ち負かしたのでした。
一方国内での革命に、戦力士気が分散したロシアは疲弊し、漸く着いた無敵のバルチック艦隊さえも、連合艦隊司令長官・東郷平八郎率いる大日本帝国海軍に日本海々上にて総撃沈されたのでした。世界を震撼させた日本の潜在的底力。
それが、ペリー来航以来わずか51年後の事、明治維新の近代化36年後に、この奇跡は成ったのです。
三、「水市営の会見」
私は小学生の時、森繁久彌唄う「水市営の会見」を聴いて育ちました。
「昨日の友は、今日の敵」の意味も解らずに……。
(挿入 詩吟)
山川草木た荒涼
十里風し新戦場
征馬前(すす)まず人語らず
金州場外斜陽に立つる
(『金州城下作』乃木希典)
旅順開城 約成りて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水市営
……
昨日の敵は 今日の友
語ることばも うちとけて
我はたたえつ かの防備
かれはたたえつ 我が武勇
作詞:佐佐木信綱
作曲:岡野 貞一
乃木の評価は当時賛否両論で、弟が参戦して「君死にたまふことなかれ……」を詠んだ与謝野晶子を始め、芥川、志賀。
そして漱石は『こころ』で賛同し、戦後の作家司馬遼太郎は『坂の上の雲』で愚将として描いています。
しかし、その貫くものが、「『義(正義や義務)」は人体の「骨格」にして基盤。いかに才知学問があるも、「義」なければ武士には非ず』と、説いた新渡戸稲造の「武士道」精神であった事は否定できません。
敗将ステッセルに対し、「後々まで恥を遺すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ」と言って従軍記者に、同列に並ぶ一枚の写真のみを許可させ、武人としての名誉を重んじ、本来丸腰にすべきも帯刀を許し、酒を酌み交わして歓待し、互いに武勇を称え合ったと言う。
それが、幼き私が、聞き馴染(なじ)んだ唱歌「水市営の会見」の内容だったのです。
そして、ステッセル将軍が軍法会議で宣告された銃殺刑の極刑阻止のため、乃木はロシア皇帝に嘆願の書信で、祖国のために善戦したことを訴え、さらに投書をもって欧州に世論喚起したのでした。
その結果シベリア流刑に減刑され、残された妻子の生活を私費で援助し、陰で終生支え続けたという。
この敗者を労わる無私の立ち振舞いに、旅順攻略の武功と共に、世界各国から称賛され「軍神」として崇められました。
乃木の殉死後、「モスクワの一僧侶」より弔慰金が送られて来た。その僧侶こそ、ステッセルその人であった。
「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」と繰り返し語っていたという。
旅順では、国軍の忠魂碑建設より先に、ロシア軍の慰霊碑を建てさせ、佛門僧侶でなくロシア正教の司祭を招いて敵軍といえども懇ろに御霊を祀ったのでした。
米国より観戦武官として派遣され、乃木の身辺を取材した人こそ、あのマッカーサーの父アーサーでありました。
子ダグラスに対し、「武士道の極致、乃木希典のような軍人になれ」と言い続けたという。
為に、太平洋戦争後すぐ昭和天皇との謁見で「この度の戦争責任のすべては朕(ちん)にあり。朕を罰するも、国民を罰せず、救ってほしい」と嘆願する無私の大御心(おおみごころ)に感銘して、放免したマッカーサーの心底には尚、父アーサーからの乃木の面影を観たのでした。
そして、昭和天皇の御幼少時、裕仁親王殿下は、教育係としての学習院長・乃木を慕い、その殉死に涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べ、黙して慟哭されたという。
この二人を繋ぎとめていた人こそ、洋を隔てて乃木大将という同じ師であったことに、甚だ深い神縁を感ずるのです。
そして、昭和26(1951)年5月3日、米国上院軍事外交共同委員会での聴聞会にて、連合国軍最高司令官マッカーサーは、
「日本はアジア侵略が目的でなく、自国の安全保障上の自衛の戦いであり、また、米国が中国の共産主義台頭を黙認したことは、100年の禍根を残すことになろう……」
と証言して今日を予見したが、未だに広く知らされることがなかったのです。
同じく観戦武官の英国・ハミルトン・イアン将軍は退役後、エジンバラ大学の名誉総長になってからも
「自分が、もしも日本人だったならば、乃木将軍を神として仰ぐだろう」
と学生たちに語り続けたという。
またロンドンタイムズの従軍記者・スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死の訃報に接し、『乃木大将と日本人』(原題『Nogi』)を著し故人を讃えたのだった。
旅順攻撃小隊長として参戦した櫻井忠温(ただよし)。
砲弾に打たれ死地を彷徨(さまよ)うも恨まず、自著『肉弾』の中で、みな生死極限の中、兵士や家族の安否を気遣う乃木の思いに、「乃木のために死のうと思わない兵士はいなかった。それは、乃木の風格によるものであり、乃木の手によって死にたいと願っていた」とまで言わしめている。
乃木の葬儀は、自宅から青山墓地まで国の内外を交え、延々たる沿道20万人の参列に「権威の命令なくして行われたる国民葬にして、人民として空前絶後の盛儀たる世界葬」と表現され、国民一同悲しみの中、喪に服した。
四、「日本の一番長い日」
私が19歳、昭和44年のこと。
毎月「東京薬師寺会」の橋本凝胤長老の佛教講話に、出席させて戴いた。
その席上、「このご婦人は、故阿南大将の綾子夫人です」と長老からご紹介戴いたのだ。
その当時、無識無学の若造にとって、阿南何某(なにがし)が如何なる存在であったか、知る由(よし)もなかった。
例会には、必ずや顔を合わせて、いつも私の行く末のことを心配し、懇(ねんご)ろにお声を掛けてくださった。
46年、長野の薬師寺分院・聖光寺に移り、得度出家され善信尼となられた。
幾千万の戦死者の菩提を弔うため、祈りの後生を以て一身を捧げられたのだ。
あの乃木大将の来し方行く末を思うとき、この阿南大将の自死が重なり合う。
映画「日本のいちばん長い日」。
主演・役所広司が演じる阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣。
今日、大東亜戦争の終結以降、日本国民が無事安寧に繁栄を築き、生きて今日ある平和は彼のお陰ではなかろうか。
あの終戦の日、何が起こっていたか。
その前日8月14日の御前会議、広島・長崎の原爆投下によって、誰しもが、降伏を認めざるを得ぬ状況の中、500万人の陸軍を擁する阿南は、政府と陸軍の板挟みになって、戦争続行を訴えた。狂気に満ちたものだった。
しかし、これは、若き将校たちが今にもクーデターを起こして本土決戦を強行する暴発を抑える為の芝居であった。
ポツダム宣言を受諾しなければ本土が焦土と化し、しかも、ソ連が日ソ中立条約を8日に破棄して宣戦布告、翌日南下している。
戦勝國では、既に日本分断が画策されていた。
その奇策こそ、最後には昭和天皇の聖意を仰ぎ、ポツダム宣言を受諾するための深謀遠慮の策であった。
聖断とならば、将校は矛を納めるしか道はない。遂に、天皇の終戦の詔(みことのり)が下った。
これで、日本は九死に一生を得たのだった。
阿南は安堵と共に、自ら天皇を担ぎ出したる逆賊の罪を我が一身に科し、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して、15日未明、遂に独り自決して散った。
終戦記念日は、この大義人の犠牲恩義無くして有り得なかった。
大君の深き恵に浴みし身は
言ひ遺こすへき片言もなし
生前、彼の最も崇愛すべき軍人こそ、乃木将軍その人であった。
五、激跡に巡り合う
ながかれと
いのらぬものを
玉の緒の
老朽(おいくる)る身に
かかるくるしさ
典
(玉の緒は、魂(たま)の緒の意から生命。いのちのこと)
(訳)「長生きしたいと祈らないものなのに 老い朽ちようとするこの身のこのような苦しさよ 希典」
この8月13日のお盆に、巻紙に処した一幅の掛け軸を、ある方から頂いた。
それは、乃木希典の辞世とも言える書であった。その箱書きには、こう記されていた。
「乃木大将真筆也 自刃數日前夕刻 寺田大将ヲ訪問 快談数刻 筆ヲ執テ巻紙ノ一端ニ 此歌ヲ誌シテ辞去ス 蓋 乃木大将ノ意中 或ハ永別ノ意ナランモ寺内大将之ラ悟ラス 後數日 自刃ヲ聞キ始メテ 前夜ノ意ヲ解セリ 予ハ 寺内寿一泊マリ 此歌ヲ譲リ受ク
大正十一年五月 國司精造 謹誌」
大正元(1912)年、 明治天皇大葬の9月13日夜、あの崩御の御跡を追って、静子夫人とともに自刃殉死された大将。
その数日前に寺内寿一大将を尋ねて記した一書に対し、その前後の実情を國司精造少将が、後年誌したものだった。
ちなみに、この事件の3年前の明治42年8月22日の作に、この和歌の元歌となるものが遺されている。
ながかれと
いのらぬものを武士(モノノフ)の
老いくるゝまで
のびし玉の緒
二人の子息を、旅順で相次いで戦死させた時、「よくぞ死んでくれた。これで世間様に申し訳が立つ」、漸く胸の痞(つか)えが下りたと、机上の蝋燭(ろうそく)を吹き消し、溢れ出る涙を見せまいとされたと聞きます。
やはり、親は親、人の親でした。
心中、愛息を亡くし、断腸の思いだったに違いありません。
幾万人もの配下の将兵たちを壮絶たる死をもたらせた自責の念に苛まされつつ、二重の重い悲しみに堪えていたのです。
多くの国民や国々からの囂々(ごうごう)たる非難に耐えて、遂には日本勝利に導いたとはいえ、最期の心は、本歌よりもさらに切実な「……かかる苦しさ」が本音だったのではないでしょうか。
天皇の御命(ぎょめい)を完遂した暁、自ら死の苦しみを受け、夫妻して責を全うしたのでした。
うつ志(し)世を
神去りましゝ大君乃(の)
みあと志(し)たひて
我はゆくなり
この大君を慕う辞世の裏に、乃木の本懐が「ながかれ…」の慟哭の声なき声として、突いて出たのではないでしょうか。
更に、静子夫人、二人の幼児を亡くし、さらに残りし二人の子の戦死に、三日三晩泣き続け、血の涙を流したともいわれました。
最早、生きる屍(しかばね)、蛻(もぬけ)の殻(から)の如きこれからに、夫共々子の許に、むしろ死を見ること帰するが如く、歓び勇みて旅立たれたのではないでしょうか。
無言の消息に、一層の悲しみが募ります。
六、亜細亜(アジア)開放
この悲しみに満ちた乃木将軍による日露戦争の勝利は、一方世界人類にとって、驚天動地のニュースで、欧米人がひっくり返る騒然たる大事件になった。
この大東亜戦争の発端と終結。
それまでの人類史にとって有色人種が、白色人種を打ち負かせたという事がなかった。
列強欧州アジアへの400年にもわたる植民地化・領土化により、アジア圏の疲弊と自信喪失は限界に達していた。
そこに、突然降って湧いた日本勝利の朗報。どれほどアジアに自信と希望を与えたことか。
その興奮と歓喜は計り知れず、眠れるアジアの獅子たちを次々と目覚めさせた。
陸続としてアジア、アフリカ、中東から要人が視察研修に来日し、その中に、中国の孫文を始め、インドのチャンドラ・ボース、ビルマのウ・オッタマ僧、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、フィリピンのアルミテオ・リカルテ、中近東からはムハンマド・クルバンアリーなどの民族主義者が自国独立を夢見て遊学した。
彼の若きネールは「長年、ヨーロッパに苦しめられて来た我々アジアの国々にも、やれば出来るのだ。希望の光が射して来た」と言わしめた。
ガンジーによる大英帝国からの独立運動に、どれほどの火種を付けたことか、計り知れない。
欧米の圧政に苦しむ植民地解放、民族独立運動が、日本が提唱したスローガン「アジア人のアジア」の狼煙(のろし)に呼応して立ち上がった。
だが、悉く弾圧され、即支配から免れぬも、続く大東亜戦争の日本敗戦後、その夢が次々と開き、独立国家の成立が相次いだ。
その運動に、これら亡命者を温く受け入れ庇護し支援した明治・大正・昭和の先人たちを誇りとしたい。
閉ざされた植民地の開放終焉という歴史的意味合いに、深く思いを致さねばならない。
そして、大東亜圏のみならず、欧州のフィンランド、ポーランド、トルコさえも狂喜してその勝利を讃嘆した。
それは、帝政ロシアなどの圧迫に苦しんでいた所以(ゆえん)である。トルコ・イスタンブールには今なお乃木通、東郷通があり、子供に「ノギ」「トーゴ」と名付けるほどに親日国で、いかに当時影響力絶大だったことかを物語る。
だが、そのフィンランドがスウェーデンとのオークランド諸島を巡り所有権争いが起ろうとした際、闘争を回避して恒久的平和裁定を下し、この大戦にも中立不戦を保持させた日本人が居た。
七、武士道と仁義
その人こそ、当時、国際連盟事務局長の新渡戸稲造であった。
実に大正9(1920)年に就任した100年前の事である。
北海道にも馴染みのある彼は、札幌農学校(今の北大)に入学して後、教鞭をとり、日本初の農学博士になった。
1900年に出版された名著『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)は、さらに日露戦争の勝利により世界的なベストセラーになり、日本の情けと精神の在り方を裏打ちした東洋文庫に世界は瞠目した。
「国が南であれ北であれ、はたまた東であれ西であれ、正義人道に適(かな)うことを重んずるのが真の愛国心であって、他国の領土を掠(かす)め取り、他人を讒謗(ざんぼう)して自分のみが優等なるものとするは憂国でもなければ愛国でもないと僕は信じている。定めるものは人類一般即ち世界文明のために何を貢献するかというところに帰着する傾向が著しくなりつつある。」
『真の愛国心』より1925年
今、このコロナ禍、そして米中戦争兆しの中、彼の国にこそ聴かすべき至言が一世紀前に、この東土日本から発せられていたのだ。
徒(いたずら)に、自虐史観・侵略史観を強要されて学び染められた戦後75年に、その真意と心は掻き消されてしまったのだ。
「武士道」とは、古来日本の教え、神道、佛教、儒教の三教一体化したエッセンスで、神仏・祖先を敬い、運命を受け入れ感謝し、知識と行いを一致させた極く当たり前に庶民に浸透していた精神文化でもあった。
掲げた「義勇・仁禮・誠・名誉・忠義」の徳目に堅苦しさはなく、日本人でなくとも、人類誰でも共感できる不変の道徳律と人としての信条、宗教的神性があった。
八、「以怨報徳」と「小國寡民」、そして情緒
乃木大将や阿南大臣の忠心正義とは、時代錯誤、今の世には関係ないものでしょうか。
武士道は、武道を言うのではなく、文武両道何れの道においても、正義を貫き、そして情愛で支える人の生き方、日本的生き方を言うのではないでしょうか。
義は、仁と言う情の裏打ちがあってこそ成り立つことを、乃木大将は身をもって示されています。
これこそ、情緒であると確信するのです。
最後に、心残りだった同族でありながら、戊辰戦争で、会津と長州という敵対関係にあった祖先のこと。
それが、一枚の写真で、氷解したことを告げねばなりません。
明治維新後、29(1896)年に、乃木は、会津若松に赴き、慰問講話をして、会津の民衆に対して和を以て新しい日本建設に向けて、共に手を携えて歩むことを訴えたという事です。
勝ち負けを超え、恩讐を越えて、共に向かうべき平和で幸福な国造りをすべき秋(とき)なのです。
縄文から現代まで、国内においても、どれほどの殺戮を繰り返し、どれほどの家族の悲哀哀絶を積み重ねて、今日があるのでしょうか。
「以恩報恩 以徳還仇(恩を以て恨(うら)みに報い、徳を以て仇(あだ)を還(かえ)す)」
目には目を、怨恨を怨恨で返しては、何時までも悲惨は止みません。
憎悪を恩徳を以て、消すのです。
それは、怨恨を怨恨と感じない無為の生き方の老子の直言でもあります。
「怨みに報ゆるに、徳を以てす」
(『老子』六十三)
その徳とは、情でもあります。
哀れみでもあります。
仁愛の徳を言うのでしょう。
これこそ、情緒なのであります。
極めて日本人らしい徳目なのです。
日露戦争で、捕虜となった7万以上に上るロシア戦士。
帰国後、「日本人のお嫁さんを迎えたい」と言わしめたほど、みな親日家になったことをご存知でしょうか。
松山を始め全国29か所の収容所において、傷病兵を懇ろに看護し、「敵国といえども、祖国のために奮闘した心情を組み、心から接するように」と、国賓の如き様々な厚遇、墓地まで整備した深慮に、兵士はみな感動して怨みや憎しみは溶けたと言います。
片や、日本兵は、厳寒のシベリア抑留の重労働に死すともです。
そして、この無償の行為は、人道的国際法遵守の典型として、世界から賞賛されたのです。
「昨日の敵は、今日の友」は、言葉だけではないのです。それを実践出来るのが、日本人の本質なのです。情なのです。
そして、その怨みを生まない秘訣こそ、老子の説く「小國寡民(國は小さく、民は寡(すくな)くあるべし)」です。
それは、日本流にいうと慎しみなのかもしれません。
小さく居る、小さく収まることこそ、人に怨恨を買わず、平穏無事で行ける人生のコツでもあります。
歴史に学ぶとは、ここを言うのではないでしょうか。
九、共産主義の脅威
逆に、覇権の先、独裁の末には、崩壊が待っています。
共産主義は、唯物思想を根幹としています。
つまり、この世界は、唯(ただ)物が存在するのみ。心を否定し、神を否定する、全くの迷妄幻想なのです。
故に、国家・民族を弾圧し、宗教・天皇制を抹殺するのに躊躇(ちゅうちょ)ありません。
今の米中対立。中共の世界制覇の拡大指向が、結局はどんな悲惨を生み、不幸を生み、崩壊を生むか、今我々は、その現実を目の当たりに見聞し、体験しているのです。
そして、その結果、指導者の野望と妄執と狂気が、多くの民衆を惨憺たるどん底に陥れるのです。正に、この世の地獄を見ています。
中共による、大躍進政策、文化大革命、天安門事件で、7千万人以上の命が落とされました。
これは、第一次・第二次大戦の戦死者を上回る恐るべき暴政の75年だったのです。
彷徨(さまよ)えるダライラマ法王14世。
あのチベットを始めとして、南モンゴル、ウイグルを次々と侵略し弾圧し虐殺して、伝統文化を破壊し、信教の自由を略奪し、自国語を禁止し、子孫を根絶やしにするため洗脳教育・同化政策・民族絶滅を断行しています。
臓器売買までする、正に現代の奴隷制度でもあります。
そして、香港の自治権を奪い、この先に台湾を虎視眈々と狙い、遂には尖閣から日本を我が物にしようと解放工作をしています。
どんな略奪も殺戮も心を痛めず介しない。
この北海道も沖縄も、広範な土地や建物の買収が進み、既に水面下では年々中国の自治区化しているのです。
恐ろしき謀略と実行支配の末、国家そのものが牢獄と化し、国民一人ひとりが囚人となるのです。
南沙諸島を取り巻く各国は、一触即発の危機に瀕しており、我々と運命共同体なのです。
一党独裁による世界覇権を目論む狂気は、あの大東亜アジアの悪夢「植民地時代」を再びと呼び戻そうとしているのです。
先人たちの死をも顧みない努力で築き上げた平和国家が今瓦解しようとしています。
十、祖国を守る
この民主主義の時代に、これらの非道、無道が罷(まか)り通って良いものでしょうか。
事ここに至って、防衛抑止のための軍備は止むを得ないと信じます。
武は干戈(かんか)即ち矛を収めると書き、戦闘を止ませるもののことです。
文武両道とは、いずれをも抑制し人を成長させるためのものです。
こう切り出したことは、むしろ甚だ遅きに失する感があります。
時には、決然として蹶(た)たねばなりません。
最後の最後は、他国に頼れないのです。頼る者は自らしかいないのです。
土壇場で自らを自ら守らずして、誰が愛する故郷を、家族を、朋友を、祖国を守るでしょうか。
今こそ、自由と民主主義を標榜する世界の国々と連帯し、毅然として正義のため、身を賭す勇気が問われています。
それが、武士道の真価なのです。仁義実践の真情から来るのです。
今、この日本に生まれた幸せ、ここに生かされている平和と自由。
それは、祖先の血、先人の涙があってこそ、今日我々は在るのです。
日本の苦難苦闘の歴史を偲び、感謝し、今こそ報わねばなりません。
より良き日本を、素晴らしき世界を建設すべく、子々孫々のため立ち上がりましょう。
最後に「乃木神社」
先年、東京赤坂の乃木神社にお参りに、初めて立ち寄った。
どういう訳か、若者たち、それも男子が、盛んにおみくじを神木に結び付けているのだ。
訳を聞いてみると、何でも「乃木坂46(フォーティシックス)」の大ファンで、全国からの参拝者が絶えないという。
驚きの余り「時代が変わったなー」と感心した。
しかし、この子らは、乃木大将のこと幾許も知らないであろう、と思った。
しかし、何でもよい、唄でも、踊りでも、それが切っ掛けに良縁に結ばれれば、素晴らしい世界が開かれるはずだと思われた。
帰宅して、PCで検索していると、突然女子集団が、タイトル「シンクロニシティ」を歌い踊り出し、しばし爽やかな思いで眺めていた。
…………
みんなが信じてないこの世の中も
思っているより愛に溢れてるよ
近づいて「どうしたの?」と聞いて来ないけど
世界中の人が 誰かのことを思い浮かべ
遠くの幸せ願うシンクロニシティ
だから 一人では一人では負けそうな
突然やって来る悲しみさえ
一緒に泣く誰かがいて
乗り越えられるんだ
ずっと お互いに お互いに思いやれば
いつしか心は一つになる…
(作詞:秋元康、作曲:シライシ紗トリ)
何とそのアイドルグループ「乃木坂46」が、「レコード大賞」まで取った曲だそうで、乃木神社が聖地であったということだ。
何も知らない私は驚くばかりだが、当の御祭神、乃木希典・静子ご夫妻の御霊は、玄孫(やしゃご)のような彼女らの出現を、きっと微笑んで見護っていらっしゃるのでしょう。
何か、難しいことを色々書いて来たが、この歌詞の通り、踊りの通りで、最後、物事は解決されるのではないかと思った。
……ずっと お互いに お互いに思いやれば
いつしか心は一つになる…
一見何の繋がりもない関係。
極めて古典的な忠恩義烈の乃木大将の御徳。
片や、今を時めく女子アイドルグループの人気。
その昔と今を繋げ、老と若を結び、武と文を合わせ、素朴と派手が混ざり、虚と実が重なり、これまでもこれからもイノチが育って行く、歴史が繋がって行く不思議さを感じた。
かの芭蕉翁は、俳諧(はいかい)も変わらざる不易と、変わりゆく流行が、ともに必要であることを説いた。お互いが、お互いを育て合っているという。
対立こそ融和が、反対こそ一体の可能性がある。
このシンクロニシティ、「共時性」こそ、これからの難題解決のキーワードのように思えた。
乃木大将ご夫妻も、天上にて国の再建を大いに応援されていらっしゃるに違いない。
争い無き世界の平和へ、いざ………
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宮下周平
1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。
自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/
無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。
世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。
産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。
現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。