歴史は変る 底知れぬ大和心よ、再びと・・・【正倉院の寶物「金銀平文琴」から】

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

一、「まさか!」の歴史の塗り替え

日本中で1300年間、信じられて来たことが覆(くつがえ)った。

と聞けば、誰もがチョット眉唾(まゆつば)と、怪訝(けげん)な顔をされるかもしれない。

だが、そんなとんでもないことが、身近に、しかもアカデミックな世界で起こったのだ。

最近は先端科学の急速な進歩で、「まさか!」の新発見が続いている。

ことに、遺伝子工学の発展により、考古学の枠組が外され、DNA解析で人類の発生や民族移動の歴史が闡明(せんめい)にされ、従来の通説や常識が次々と覆されて来ている。

例えば、万年単位で続いていたという「縄文文明」が、今世界的に大注目されているなど。

素人の我々にとっては痛快とさえ思える、その歴史の新展開に、胸の空(す)く思いがする。

それは、小学校から習って来た常識という壁が、ガラガラと音を立てて崩れ行くさまの向こうに、新たなる想像の景色が開(あ)けて行くからだ。

その小さな出来事が、歴史の見方を一変させるダイナミックでファンタスティックな世界と化し、我々の人生への捉え方、歩み方さえ変えてしまうエネルギーに魅惑されるのだ。

二、日本史における新事実

さて、前置きはそこそこにして、その小さくも重大な事件を紹介したい。

それは、昨年、令和の改元と新天皇の即位を祝して、奈良と東京の二か所で開かれた「第71回正倉院展」に始まる。

毎年、そのメインの寶物(ほうもつ)が楽しみである。

それが令和元年の大きな節目に相応しく、東京は「螺鈿紫檀(らでんしたん)五弦琵琶」、奈良は「金銀平文琴(きんぎんひょうもんきん)」の出色の御物開陳であった。

正倉院といえば、亡き聖武天皇の遺徳を偲び、天平勝宝8年(756)の七七忌(四十九日)に際して、光明皇太后がその遺品を東大寺に献納した由来による。

「……疇昔(ちゅうせき)を追感し、目に触るれば崩摧(ほうさい)す。謹みて以て廬舎那佛(るしゃなぶつ)に献じ奉る。伏して願わくは……」

皇太后が、太上天皇遺愛の品々を見るに、生前の天皇との追憶に、心が千々(ちぢ)に散り砕かれんが為、大佛さまに納めたい、と発願(ほつがん)して、國土國民の安寧を祈られた。

時、白鳳天平時代、中国は唐の最盛期。遣唐使の行き来も頻繁に、唐から天皇への献上貢物(みつぎもの)も多く、1300年後の今日まで、遺品伝来物として院奥深くに守蔵されて来た。

一度の火難・盗厄もなき佛國土、守護佛神に守られた至寶。

だが、「勅封(ちょくふう)(天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること)」を外して倉庫に入るが如く、今常識の鍵が外されて、自由の扉が開かんとす。

三、正倉院御物の琴が和製?!

本年正月、5年ぶりで琴友の山寺三知・美紀子夫妻と会談の機会を得た。

その時、手渡されたのが、農繁期の為、行きたくても行かれなかった「第71回正倉院展」のカタログと、もう一つは、お二人の訳文、鄭珉中(ていびんちゅう)著『正倉院の「金銀平文琴」について』という二冊の論文であった。

これが、どれほど「警世の書」であったか、改めてお二人のご縁とご尽力に感謝したい。

結論から述べたい。

1300年間、中国唐時代の渡来物と教えられ、今なお信じられているこの古琴が、実は日本製ではないか、という驚愕の新事実が綴られてあったのだ。

先ず以て驚くのは、これほど細密で精巧な文物を、当時の日本人がどうして作り得たのか?という疑問。

そして、これほどの歴史を翻す論文が、どうして国内外のニュースにならないのか?という疑問。

最後に、正倉院の御物の大半が、唐物でなくて和製であったという驚天動地の事実。

これらの事々は、日本史を塗り替える椿事(ちんじ)でもあるが、中々表に出ないことも、実に不可思議である。

四、「金銀平文琴」とは?

それが、どれほど確証的なのか、少し専門的に過ぎるが、しばし我慢してお付き合い願いたい。

意味不明なるも、一つひとつの導き出す答え、抑えを知って戴きたい。

どれほど日本製なのか、という証拠が陸続として挙げられている。

世界における古琴研究の権威・故 鄭珉中先生。日本における古琴研究家の第一人者・山寺ご夫妻の長年のご研究の成果が披歴されれば幸いである。

古琴については、何度か文を費やして来たので、詳しきを省きたい。

中国伝説上の皇帝、伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)が作り、舜帝(しゅんてい)が弾き、孔子が之を教え、以降、文人の嗜(たしな)みの一つがこの古琴・七弦琴で、世界で最も古い伝統楽器と称されて来た。

殊に唐時代の1300年を超える古器は、中国でも國寶(こくほう)扱いで、市価何十億の値で売買されている。

その一つが、正倉院所蔵の「金銀平文琴」である。

世に並ぶ物なき煌(きら)びやかな装飾品は、当然伝来寶物(ほうもつ)として(正倉院寶物は皇室のもので、國寶と称せず)、日中の学者専門家も異論がなかった。

今回、そこに、メスを入れさせて戴く訳である。

五、検証 その一

左図の「金銀平文琴」と右図の「唐琴」の違いに説明を加える。

A、形状と構造 B、髹漆工芸 C、銘文と款記 D、装飾の風格

といった点から、これは唐物ではないとの結論を導き出す。

鄭先生は現存する唐琴15張を徹底的に調査して、その相違を明らかにされたのだ。

A、形状と構造

①琴面の弧形(の膨らみ)の程度 (図①琴首先端の側面(頭部小口)参照)

唐琴はアーチ型で膨らみがある。こちら(金銀平文琴)は、扁平である。

②「項」と「腰」の部分の処理が異なる。(図②参照)

唐琴は縁を薄く削ぎ取る。こちらは、その処理がなされていない。

③「琴額」の長さが異なる。(図③参照)

唐琴は額から第一徽までの1/3。こちらは、1/4。

④「琴肩」の高さが異なる。(図④参照)

唐琴は第三徽に当たる。こちらは、第二と三の中間。

⑤「舌穴」と「鳳舌」の形状が異なる。(図⑤参照)

唐琴は鋭角な彫り込み。こちらは、鈍角である。

⑥2本の「雁足」の間の距離が異なる。(図⑥参照)

唐琴は端に近い(音の安定のため)。こちらは、内に近い。

B、髹(きゅう)漆(しつ)工芸(漆塗りのこと)

①断紋が異なる(漆塗りが経年により細やかな亀裂を生じること)

唐琴は整然と規則正しく精細に富む。こちらは、まばらで不規則である。

②漆下地の原料が異なる

唐琴は布着して生漆と鹿角灰粉を調合する。こちらは布着や葛布さえ施していない。

③髹漆の工芸が異なる

唐琴は漆層の剥離が見られない。こちらは見られる。

C、銘文と款記

①琴名(図イ参照)

唐琴は龍池の上に。こちらはない。

②銘文(図ロ参照)

唐琴は龍池の両側に。こちらは、琴名の位置に書かれている。

③大印(図ハ参照)

唐琴は雁足の上に。こちらはない。

④銘文及びその文中に用いる語が異なる

唐琴は故人の文辞を用いず自作文を刻む。こちらは先人の文飾で、しかも用語の誤りがある(右下図)。

⑤腹款(腹中の款記)の体裁が異なる

琴は箱型になって中が空洞。龍池から両側の表面の裏に、製作者や制作年月日が記されているのが通例であるが、唐琴は経年の為、かすれて消えたものも多い。

こちらは、唐人の用語にそぐわない。日本人の習慣的語法が見られる。(後述)

D、装飾の風格

①装飾が異なる

こちらでは、項②面に装飾した図柄で、「…鳳凰来儀す」べき鳳凰が孔雀になっている、唐琴では有り得ない(次項右上図)。

弦を張る雁足⑥の隠れた部分に象嵌などの装飾を施すことは、中国の歴史伝統工芸では稀である。

総じて、金銀平文琴は、装飾的な「寶(装)琴」の類(たぐい)であり、実際弾琴する「素琴」とは異なる。

(以上、山寺美紀子・三知訳 鄭珉中著『正倉院の「金銀平文琴」について―中国の宝琴・素琴の問題を兼ねて―(その一)』、2017.6.30.発行 『日本伝統音楽研究』第14号 要約)

六、検証 その二

さらに訳著(その二)において、論考が続く。(2019.6.30発行『日本伝統音楽研究』第16号『同(その二)』)

当時、唐の粛宗(在位756~762)の代には倹約を尊び、華麗豪華な寶琴は消滅に向かっていたこと。

中国の寶琴を模倣したが、本国の様式には嘗てなかったものであること。

そして、決定的なのは、その装飾が過度に施されて、実際の演奏に支障を来し、狂って正音が発せられないことは、致命的でさえある。

図案文様の様式が本国になくも、国内に同様の文物を他に見出せること。また、中国になく、国内に類似する「平文琴」が当時1張存在した。

そして、制作年月日の「乙亥之年」が、唐玄宗の開元23年(天平7年=735)に当たると、昭和58(1983)年目録『正倉院展』にあるも、その根拠が明確でないこと。

光明皇后が東大寺に奉納した「銀平文琴」が宮中に持ち出され、「金銀平文琴」を代納した弘仁8(817)年に最も近い60年周期の「乙亥」は795年の桓武天皇・延暦14年、唐の徳宗・貞元11年に当たる。

更に757年、唐の至徳2年に粛宗が華美華麗な宝飾制作を禁止して倹約令を発布した。つまり、唐琴では有り得なく、和製が決定的となる。

しかも、清代中期に和製の「蒔絵黒漆金花琴」を皇帝に献納したものが、紫禁城皇宮内で発見されたのだった。

「比較なくして、鑑定なし」。

陶磁器のように、本国においても唐琴の研究がなされず、金銀平文琴が正倉院御物で安易に調査出来ない障壁もあって、両国で今日まで謎のままで置かれた。

それが研究者の出現と時代の要請があって、1300年の帳(とばり)を経て、今日この結果を得たのだ。

しかし、一方国内に、國寶『黒漆七絃琴』(東京国立博物館 法隆寺宝物館)が現存している。

胴の内部に「開元十二年歳在甲子 五月五日於九隴縣造」という墨書銘から中国・唐時代、玄宗皇帝が在位していた開元12年(724)に、四川省成都市に近い九隴(きゅうろうけん)県で製作されたことが明らかな渡来寶物。製作年代と製作地がわかる世界最古の七弦琴である。

延暦14(795)年に作られたであろう御物「金銀平文琴」はこの同じ形状に倣い、そこに宝飾を施した可能性が高いのではなかろうか。

そういえば、私の習琴時代の50年前、東大で五山文学を専攻されていた琴友の田中博英君が、「金銀平文琴」と同寸の白木の琴を知人に作って貰った記憶が、今蘇って来た。古今に同じか!!!

七、「螺鈿紫檀五弦琵琶」にも

しかし、この論考が日本で、未だ正式に認められた訳ではないのだ。

この圧倒的考証の結論に、日本側としての反駁(はんばく)は極めて困難であろう。時を経て、結果すると予測する。両国の共同研究に期したい。

だが、言わんとすることは、その事の是々非々ではない。

むしろ、その結論に、日本人が大いに勇気づけられ、希望が与えられたことに感謝したい。

天平当時、手取り足取りの指南もない手探り状態。

今尚、この謎深くも判定し難き古琴の名器を作り得た日本人の勘所(かんどころ)の良さと手技(てわざ)の巧(たくみ)さ。指摘された瑕疵(かし)はあるというものの、ここまで仕上げた才知技量に驚嘆するばかりではないか。

先年TVで放映された、中国には現存しない「螺鈿紫檀五弦琵琶」の正倉院寶物の再現を、現代の名工名匠たちが、挙(こぞ)って取り組んだ。

そして、構想15年、着手から8年の歳月を費やして、それを見事完成させたのだった。

唐の玄宗皇帝が、寵愛の遣唐留学生・井(いの)真(ま)成(なり)が亡くなり、その哀悼の意に、この琵琶を聖武天皇に贈ったとされているが、果たして……。

指物(さしもの)といい、木工といい、螺鈿(らでん)・鼈甲(べっこう)といい、彩色といい、細密極まりなき見事な仕上がりは息を飲むばかりだ。

これも私見だが、当時、日本の名工がこれをも制作したかもしれぬという浪漫と期待も一方にはあるのだ。

そして、様々な文物に最先端の科学の目も当てて解析した結果、正倉院の御物の7、8割が日本の工人が創作したものではないかという見解にまで、現在至っている。

八、國家再生の意気を再び

國の鋼(あらがね)を尽くして象(かたち)を鎔(い)、大山を削(き)りて堂を構へ(かまえ)

かく、聖武天皇の大佛建立発願を立てるや、國民一丸となって國家の大事業に傾注猛進した。

つらつら考えるに、外津國(そとつくに)の高度な技術文化を我が物として、平城京遷都をやってのける力量は何処から来たのか。

佛教を國教として据(す)える決断力と信仰心は金剛の如く固く、そして感応歓喜(かんぎ)する官吏平民。あの東大寺の巨大建造物。大佛・佛菩薩像の精巧で精気漲る造形。

飛鳥期の渡来人金剛重光(こんごうしげみつ)の如く、唐・百済の棟梁、佛師が来歴して統率引導に当たったとはいえ、それを受ける職人は、知見と経験不足の人足(にんそく)であろう。

現代においても建造困難な事業を、どうしてあの時代に遣(や)り果(おう)せたのか。日本人に秘められた未知にして無限のエネルギー。

実に感嘆措(お)く能わざるものではないか。

これもまた、明治維新後、西洋建築の石造り木造りの洋館が突如、出現した奇跡を何と見よう。

英国からジョサイア・コンドル等を招聘し建築学を子弟に教育したとはいえ、それを請け負うのはみな日本人の人工(にんく)である。

それを一朝の元に帝室美術館、鹿鳴館、日本銀行…と残した名建造物。

我らの無名の先人、近き祖先が成し得た仕事の跡でもあった。和魂洋才。和式も洋式も境を外す。異文化を忽然として受け継ぎ、忽然として顕す。

この異形(いぎょう)と異能は、日本人の恐るべき底力。洋の東西も、世の古今も、寸時に呑み込む。

天平の甍(いらか)も明治の廂(ひさし)も、同じ一心、同じ一途が、葺(ふ)いたものなのだ。

九、「Science(サイエンス) & Technology(テクノロジー)」

これを、映画「降りてゆく生き方」を制作された森田貴英国際弁護士がいみじくも「Science(サイエンス) & Technology(テクノロジー)」と言われた。

技術ばかりでない、本来、科学する眼が日本人には備わっているのだ、と。

全体を俯瞰して読む科学力、一気に核心部分に伐(き)り込む技術力。

共に日本人の根底に潜む伝統的先天能力が眠っている。

それは美しくも、しなやかで、永続する。

誰の中でも。

それを今一度、この混迷の世に復活できないものであろうか。我々の中から次々と再生できはしまいか。

奈良人(ならびと)、明治人(めいじびと)、そして同じ血が流れる令和人(れいわびと)よ。今こそ、蹶起(たちあが)り、誇りをもって、前を向いて生きて行きたい。

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。