「0―1テスト」による新作庭法「照葉樹林の庭」

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

一、本場での指名

ついに、令和元年のまほろば35年目にして、「0―1テスト」が、異業種によって花開いた。

「照葉樹林の庭」。

京都の古き町家をリノベーションした僅か4坪の庭を、如何ように設(しつら)えるか。さる高名な施主が、無名の庭師に白羽の矢を放った。

的(まと)は、甲田貴也(こうたたかや)・和恵(かずえ)夫妻。

そこには、魂の基部(おく)に通底する何かが響き合ったからだ。躊躇(ためらい)なき指名であった。

それから、ふたりは泉南から京に居を移し、本腰を入れて作庭に渾身の想いで心血を注いだ。

本場古都の目の肥えた好事家(こうずか)、粋人(すいじん)、老舗(しにせ)の造園家が数多(あまた)いる注視をも物ともせず、これに取り組んだのだった。

二、「世界旅行」と「0―1テスト」を指標に

それを、果敢にも踏み込ませたものは、何か。衝(つ)き動かせる意思とは何だったのか。

いわば、経験わずか数年の駆け出し、そのふたりが意を決したものは。

二人三脚の一心同体の身にとって、二つの自信がそうさせたのだった。

一つは、貴也氏が53カ国を旅して、己が心のフィールドを、世界に拡げたこと。

二つは、貴也・和恵夫妻が「0―1テスト」を学び、己が心のコンパスで、世界を縮めたこと。

マクロもミクロも、拡大も縮小も、自在なる想いで、自然の奥を引き出し、自然の表に顕(あらわ)せる作庭こそ、旅程の行く着く先であり、内観の響き合う「ここ」に在った。

三、第一印象(ファーストインプレッション)

最初、その写真を見届けた時、「何故に、こうも籠(こ)み合っているのか?」との印象を持った。

不遜にも、私ならほとんど何も置かず、数本の木々、数個の敷石で充分足り、あとは一切削(そ)ぎ落すだろう、と想像(イメージ)した。

だが、彼の講話を聴くに及んで、その浅膚(あさはか)さが打ち砕かれた。

私のイメージの範疇(はんちゅう)は、すでに完成された禅寺の虚白のそれであった。

例えば、龍安寺の石庭といえば、誰もが即了解する空間芸術の演出である。鎌倉・室町より、一歩も出ていない日本人に刷(す)り込まれた庭の典型でもある。

京都と言えば、その他を許されない縛りと言うか、暗黙の了解があったはずだ。

さらに、宇治の平等院に観られる西方浄土の燦然とした瑠璃(るり)遮那(しゃな)如来の殿堂、それは目にも眩(まばゆ)い金剛光の放てる宝地、珊瑚の橋が行き渡る天上極楽庭園の寫(うつ)しである。

この浄土といい、先の禅宗といい、天竺(てんじく)・唐土(もろこし)を経由して来た宗教の陰翳(かげ)であり、外国(そとつくに)の模倣(まね)でしかなかった。

それが日本化し、純化して日本人に血肉化してしまったのだ。その摩(す)り替えに、千年の時を超えて我々は気付いていなかった。

四、独創と進取

だが、ふたりが創したものは、まったく異質の発想、異次元の手立てだった。

それは、さらに鎌倉、平安より先に遡る歴史の旅である。さらに、さらに歩き続けると、そこには弥生があり、縄文があった。

この原生の密林は、丁度、熊野(ゆや)の参道のようであり、獣道であり、道なき道の惟神(かんながら)の道でもあった。

ふたりは、そこに行き着いた。

そこは、鬱蒼(うっそう)とした昼なお暗き原始の息吹、産土(うぶすな)の胎動があり、一物(いちもつ)一物、物を語る精霊の杜(もり)であった。

その光は、眩(まばゆ)い浄土の光でもなく、一条に突き刺す禅悟の光でもない。

混然と一体なる汎霊(アミニズム)の世界であった。そこにまで行き届く光であった。

これこそが、純然たる日本の原風景であった。借り物ではなく、装いでもない、原日本人が帰るべき、求むべき神々と人々と物々が集うべき庭だったのだ。

その庭は、汚穢(けが)れなき未だ誰も手掛けていない。いや、気付かれずに、二千年の時を待ったのだ。

そこを、表現したかったのだ。そこにまで、戻りたかった、戻したかったのだ。

だが、この場、この一瞬、ついに瞬間移動(タイムスリップ)してここに戻ることが出来たのだ。

それが、「照葉樹林の庭」の誕生であり、再誕でもあった。

五、五十三カ国の旅路

それを、可能にしたのが1年7か月をかけた「貴也53カ国の旅」であった。

そこで得たもの、掴んだものは何だったのだろうか。

ひと言でいえば、「ひかり、光そのもの」であった。

それぞれの土地に、それぞれの風土がある。風土記という歴史がある。風習という民が居る。風と土と言われたが、言い足りない。それは、光だったのだ。

光は太陽光。光は天であり、父であった。土は地。光を受け取る地は母であった。

父母が交じり合い、天地が織りなす地域は、もっと言えば「光土」なのだ。

私たちも万物も回光返照(えこうへんじょう)する、その子供たちなのだ。今までにない真理を表す語彙(ごい)が生まれた―「光土」。「風土」に代わる「光土」。

経度・緯度の微細な差が太陽の角度を微妙に変え、斜光の強さ弱さ、表情、輝き、煌(きら)めき、ざわめき、揺らぎを、微(かす)かに微かに変えて行く。

ハッとする故郷との空気の違い、明らかに異質な空間を切り取る異国の雰囲気、これは光が織りなす劇場なのだ。

光が土を変え、水を変え、風を変え、人を変える。そこに何故、気付かなかったのか。

彼は、東亜細亜(アジア)を回り、亜細亜を回り、絲綢之路(シルクロード)を回り、中東を回り、阿弗利加(アフリカ)を回り、欧州を回り、露西亜(ロシア)を回り―、そして日本に帰った。

西蔵(チベット)ラマの読経の声(うなり)に、尖塔教会のステンドグラスの彩光に、エーゲ地中海の天藍石(ラピス)の色に、光の乱舞と、鎮めと、一途さと、緩やかさと、言葉にすれば空しい………。

そして、気付いたのだ。千変萬化、変幻自在な自然の変化(へんげ)流行は、光が大元(おおもと)であることを。

六、日本の光

果たして、日本の光とは、何か。

それは、最早彼にとって、寺院でも、皇宮(こうぐう)でも、社(やしろ)でもなかった。

それは、更に千年万年を遡(さかのぼ)る原始林の暮らしの光だった。住まいの光、営(なりわ)いの光だった。

その原始の光が差し込む土こそ、「庭」であった。

照葉樹林帯。

カシ、シイ、クスノキ、ツバキ、葉の表面の照りが強い温帯に成育する常緑広葉樹林。

同じ日本人のDNAを等しくするヒマラヤ、チベット、雲南、華南、江南に続く西日本の気象と風習。

稲作と発酵と歌垣と顔立ちなどなど。そこに日本の源泉、同流が今なお朽ちずして息づいていた。

嗚呼、懐かしい……。

すっかり忘れかけて、忘却の彼方に捨て去った日本人がそこにいた。

文化文明という虚飾に溺れない、素朴で清々(せいせい)とした純日本、原始日本の暮らし向きがあった。

我々が、帰るべき元の古巣があった。あったのだ。

七、心の街、綾町

25年前、まほろばが、本格的に有機農業を声高(こわだか)に宣言し推進したきっかけは、一本の大根。それも宮崎県綾町の大根だった。

それは、実は照葉樹林帯の畑で収穫(と)れた大根だった。そこに繋がったのだ。

そして、それを知らせて下さったのが元町長、故・郷田實(ごうだみのる)先生だった。

この山を薙(な)ぎ倒す伐採計画を前に、國に敢然(かんぜん)として立ち向かい、命懸けで守り通した心の人、愛の人であった。

それは目先のことではない。「遠い日本人の源流を守れ!帰れ!」というイノチのメッセージでもあった。その言霊(ことだま)が、今なお、万年の森に残響している。

私も、江西の地、長寿郷の巴馬(バーマ)で飯(はん)を呼ばれた時、一瞬にして体と同化してしまう不思議な体験をした。

旨い不味(まず)いの境ではなく、もうそれは自分そのものの食事の記憶であった。かつて、ここを通った、ここに棲んでいたという絶対の確信がそこに在った。魂の記憶が、ここに蘇ったのだ。

八、0―1テストの示すところ

本場京都の町家に、どう立ち向かって庭を移すのか。普通なら、怯(ひる)むだろう。腰が泳ぐだろう。

だが、ふたりには、無念にして囚(とら)われない確固とした、誰にも侵されない自信があった。

それは、誰もが出来得ないものを、自分たちは叶うという確信でもあった。

それは、世界を集約した足で、「日本とは何か」を問い続けた答えであり、日本を結晶化させる技術である。

その記憶を、指を通して現場に落とし込む「0―1テスト」こそ、そのツールであった。

先見観念も、経験則も、知識量も、全く介せず、ダイレクトに土地の欲する所、天の願う所、人の感ずる所を、指示(さししめ)してくれる。

樹の種は、数は、大小は、肥は、位置は、悉(ことごと)く悉く、0―1でチェックして、自分の思料も裁量も挟まなかったという。それは、石も砂利も苔も迪(みち)も何もかも。

「0―1テストの施工現場では、終始驚かされることばかりでしたが、完成した姿は、生態の視点。光や水、風の動きを心地良く満たした庭でありました……」と、手文(てぶみ)に綴られてあった。

かくして、それは耳外の耳、視外の視の判断に他ならない、正に無私の施工であった。

それは、自ずから照葉樹林を選定し、帰依縄文の精神が横溢(おういつ)していた。

かつて、夫人和恵さんは、自然土木造園を学ぶ中で、家内と出会う機会があり、惹かれるものがあるのか、ここ3年、仁木に足を運んだ。

2年目からは、結婚してご夫妻で来られ、0―1テストは、手を取って教えることもなく、自然の内に我が物にしていた。

生まれながらの感性と希求心が、自(おの)ずからそうさせたのだ。

唐代、達磨大師より数えて五祖弘忍(ぐにん)老師は、文盲(もんもう)無識の慧能(えのう)を得て、博覧強記の神秀を退け、師資相承の法燈を一夜にして授け傳(つた)えた。人を介して法脈は繋がり、決して年月を待つに非ず。

九、海外に行く

人知れず、己が事々(ことごと)を為(な)すれば、名必ず外に聴こゆ。徳は置郵(ちゆう)より速やかなり。

次に、ラスベガスから発注(オーダー)が入ったという。

これを真の風聞(ふうぶん)という。正に風の便りで、洋の東西を問わず、行くべき所に行く。着くべき時に着く。確かなる力のある技(わざ)であり、運なるが故なのだ。

そこは、決して「照葉樹林の庭」でないことだけは、確かであろう。

縛(しば)られず、囚(とら)われず、縦横無尽に風の吹くまま、水の滴(したた)るまま、星月(ほしづき)の瞬(またた)くまま、天に預(あず)けるが故に、OK(了解)!

また、ふたりに、ネバダの砂嵐が教えるだろう。オアシスの夜光が照らすだろう。

最もそこに相応しく、和式の庭ではなく、ラスベガスの庭園(スピリットガーデン)が出現するだろう。

十、ありのままに、私のままで

巴馬(バーマ)から帰還して千歳空港のタラップに降り立った時、「懐かしい。やっぱり、僕はこの風だなー」と、緑風は頬(ほほ)を撫(な)で、あれほど感銘した巴馬も刹那(せつな)に忘れ、北海道生まれの少年に戻っていた。

北国の空はあくまでも高くして何処までも澄み切り、風早(かざはや)は遠くの雲上で逆巻(さかま)き、川瀬はサラサラとコタンの茅葺(かやぶき)小屋を横切る。

あぁ、ここはアイヌの大地で、さらに古縄文の原野でもあった。

銀の滴(しずく) 降(ふ)る降るまわりに、
金の滴 降る降るまわりに……

ここで、甲田夫妻に庭を注文(オーダー)したら、どんな樹々を、どんな風に、どんなつもりで造るのかしら? と、微笑んだ。

「……苦しさや辛さ、喜びや楽しみに感謝、夫婦だから分かち合い創造できる事を、0―1テストはさまざまに気付かせてくれました。………」

甲田貴也・和恵より

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。