札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム
序 章 戦争を知らない子供達
一、一枚の毛布
ここに一枚の毛布がある。珍しくも、カーキ色だ。
今では、誰もが、殊に若い人には、余り目にしたことのないものだろう。
薄いながら、野外でも耐えられる丈夫な布地。だが、どうして私が未だにこれを持っているのか、不思議でならない。
生まれてから70年この方、小物ならまだしも、どうしてこの重たい毛布が、ここにあるのか思い出せない。
いわば、戦後の歳月を、私と共に日本中を旅していたことになる。
この毛布は、何かを語り掛けようとしている。その声なき声を、私は聴き付けねばならない。
これは、75年も前に千歳に在った米国進駐軍の払い下げの品だった。
幼き頃、親がこれでズボンを造ってくれた。膝に穴が開けばツギを当てて縫ってくれた。
だが、幼心にこれが嫌でイヤでたまらなかった。何故か、恥ずかしくて履きたくなかったのだ。
だが、貧しくて、それ以外に冬を越せる温かいズボンなんか無かった。兄と一緒に同じ物を履いている一葉の写真がある。
今は毎月、感謝市の大字を書く時には、無くてはならない毛氈(もうせん)となっている。
自分の人生と共に歩んで来たとは、到底思えないほど、気付かぬ間(ま)に、長く私に寄り添ってくれていたのだ。
二、Give me Chocolate!
今になって初めて、この毛布ばかりではない、何かが纏(まと)わりついていたことに気付き始めている。
それは、千歳の隣町恵庭に生まれ育って、米兵がジープで繰り出して来て、チョコレートやキャンディーを姉兄に手を引かれて強請(ねだ)った、微かな思い出が蘇って来たのだ。
「Give me Chocolate!!!」
「チョコレート、頂戴(ちょうだい)、ちょうだい‥‥!!!」
それを口にすると、今までには到底味わえない甘味で身も心も蕩(とろ)けるほどの香りとヌガーの口触りに、どれほど子供心に驚いたことか。何か異物が爆発したようなショックだったのだろう。
アメリカの凄さ、異国をハッキリと意識したのは、このチョコからだった。今でも、当時のパッケージと歯触りが鮮烈に思い出される。
2、3歳の幼な子にとって、異形(いぎょう)の人間と外国という概念は無いはずで、何か異星人にでも出会った感覚だったのだろう。
田舎町でも、米兵が数多く闊歩していた。おそらく、街娼を目当てに屯(たむろ)していたはずだ。
実際、同級生にハーフの男子が居て異彩を放って、特別な存在だった。
クマ部隊として戦後1970年まで千歳に進駐して、50年の朝鮮戦争、5、60年代のベトナム戦争もここから発進していた。
そのキャンプで通訳担当の日本人に中学生で英会話を習っていたくらいだから、米国本場は身近にあった。
小学3年生の頃か、母が「F-104スターファイター」のジェット戦闘機のプラモデルを買って来てくれたのを思い出した。
母は、千歳基地の空軍部隊にそれが配備されたことをいち早く知っていたことを、子供心に驚いた。
アメリカ初のマッハ2級の超音速戦闘機だった。実に、スマートでカッコ良く、心奪われた。
そのためか、爆音が日常校舎に響き渡るので、小学校が分厚いガラスの二重窓の防音装置の改修工事を全面的に行ったことを記憶している。
爆音と言えば、日中でも街中(まちなか)で大砲の音が響いていた。
恵庭は自衛隊基地が四方に駐在していて、自衛隊島松、北恵庭、南恵庭駐屯地があり、当時東にもあった記憶がある。
北部隊のPXに父が店を出していて、亡き義兄も陸上自衛官であったので、自衛隊は空気のような存在だった。
昼日中(ひるひなか)、家の前の道路に、戦車隊の軍列が轟音を立てて走ってゆく光景は日常であった。
いずれも歩いて行ける範囲、スズランの咲き乱れる島松の広い野原がスキー場でもあったが、そこは演習場で、今でも軍事訓練の現場であり続ける。
その為、実家に近い野崎牧場で、牛がストレスで乳が出なくなり、野崎兄弟が自衛隊の通信線を切断したことで、「自衛隊は、違憲か合憲か?」までに発展した「恵庭事件」裁判が身近に起った。
小さい頃から、戦闘態勢の真っ只中での緊迫した生活環境に、身を置いていたことになる。
それと当時、担任の先生がしょっちゅう、自習時間と称して休む日が多かった。
それは、北教組に所属して反日運動が盛んで、ストライキとか会議とかで留守にしがちであったことが、大人になって、その理由が分かったのだ。
三、テレビ漬け
小学校入学当時だったろうか、町で初めてのテレビ設置で、自宅のロビーに近所の人たちが押し寄せて、黒山の人だかりになってTVにみな釘付けになった。まるで、家庭映画館が出来たようだった。
空手チョップの炸裂に歓声を挙げた力道山のプロレス放映、栃・若前の鏡里や千代の山などの相撲取り組み、川上、長島、王、金田の野球中継に熱狂、スポーツ初放映にみな我が家も人の家も区別なく沸き立った。
昔は隣近所の行き来が盛んで、みな仲良く助け合っていて、心温まる毎日を感じていた。
その頃から、TVは「月光仮面」を食い入るように見つめていたが、アメリカ映画の花盛りには圧倒されていた。
「スーパーマン」「名犬リンチンチン」「名犬ラッシー」「アニーよ、銃をとれ」「ローン・レンジャー」「ローハイド」「ララミー牧場」「パパは何でも知っている」「サンセット77」‥‥‥もう、洪水のように次々と放映されて、子供も大人もテレビ漬け。
評論家・大宅壮一氏が「一億総白痴化」と言われるほど、日本国民はみなアメリカナイズされていった。
それまでは、ラジオで聞く浪曲や落語ばかりが、一挙に日本は娯楽天国に変わっていった。
後々、それが米国の3S政策〔【Screen(映画鑑賞)、Sport(プロスポーツ観戦)、Sex(性欲)】を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策〕という事も知らずに。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫は「三種の神器」と呼ばれ、電化生活は主婦の負担を一挙に軽減していった。
誰もがアメリカに憧れ、誰もがアメリカを夢見た。「鬼畜米国」どころか、どこの家族も、アメリカの味方、大ファンになってしまった。こうも人は変われるものか。
子供は、何も知らずに、心の白紙に星条旗が、そのまま染められていった。
最早、戦争を知らない次世代の我々以降は、アメリカ文化が洪水のように押し寄せ、それを享受し、讃美した。
それは、敗戦国日本の焼け野原からの復興、希望の国を、夢の国を、象徴する日本の目標の国でもあった。
もうそこには、何も要らなかった。「早く追いつき、追い越せ」をスローガンに、「大きいことはいいことだ!!」が、一斉に掛け声となって、日本の戦後復興は、瞬(またた)く間(ま)に、あっという間に、それは物の見事に成し遂げたのであった。
1964年、東京にオリンピックが開催された。自動車のトヨタ・ホンダ、電化の松下等々、世界躍進で、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
その高度経済成長は、世界の驚異、先進国の脅威でもあった。
日本の潜在能力の高さが窮地に追い込まれると、どの分野でもいかんなく発揮された。それは、そう仕向けた米国の一番の驚きでもあったに違いない。大戦で徹底的に潰したのにも拘わらず。
そして、アメリカに次いで、ドイツを抜いて1968年GDP世界二位にまで、上り詰めた。
そしてそれは、2014年中国に抜かれるまで50年の長きにわたったのだ。
終戦の年、1945年8月15日。その年の6月26日、あの「火垂(ほた)るの墓」で描かれた岡山の大空襲で爆弾が飛び交う火の海の中で家内は出生したばかりだった。
無差別被爆で1737名の無辜(むこ)の民の命が失われた。その5年後、私は生まれたが、その間の団塊(だんかい)の世代たち。
現社会の指導的立場の年代は、戦争を知らず、日本を知らず、米国GHQの為されるままの自虐歴史教育を余儀なく受けて来た。
そして、戦前を知る80歳以上の高齢者は、発言力も衰え、多くはこの世を後にした。
そして残された我々は、この75年間。その間、何があったのか、何が為されて来たのか、全く気付くべきもなかった。一体、誰が、それを伝えられようか。
その怒涛のような戦後復興の勢いに任せて、置き忘れたもの、失ったもの、見えなくなったもの。
この75年の歳月を経て、コロナで立ち止まって、今、何か大切なもの、一番大事なもの、もっとも愛しているものが無いことに、日本は気付き始めた。
真の日本人は目覚め始めた。経済優先の社会は、こうも精神の荒廃と貧困を生むのであろうか。
それは、何だったか。
それは、何時からだったか。
今、私たちが置かれている戦後は、幻想ではなかったか。
それは、マトリックスの異界ではないのか。
何時、この歯車と噛み合わせたのか。何時から時計が狂ってしまったのか。
一切合財(がっさい)が、真実(ほんと)だったのか、虚偽(うそ)だったのか。
一つひとつ、我々が辿った歴史の足跡を掘り起こして行きたい。
そして、自分は、本当の自分は何処にいるのか、何処へ行くべきなのか、を知りたい。
それを明かしたい。
時間がかかっても、今、その旅を始める。「戦後幻想」は更に、続く。
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宮下周平
1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。
自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/
無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。
世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。
産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。
現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。