倭史 ―序章―【中国の変貌、我が青春の中国史】

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

「浄土」と聞いて、佛教を思い浮かべ、「高天原(たかまがはら)」と読んで、日本神道を思わない人はいない。

だが、「浄土」も「高天原」も、その言葉は漢字での表記だ。

一度、漢字のフィルター、言ってみれば中国文化の洗礼を受けて、印度哲学も日本思想も成立していることに、改めて気付く。

これから、その一つひとつを詳細に論述して行きたい。

そして、今更ながら、何故こう指摘するかは、一つには偏らない自国の歴史を見つめたいこと。

一つには、コロナ騒動に端を発し、露呈した中国の覇権主義の何たるかを知り、これからの世界の進むべき行く末を見極めたいこと。

民族一国主義のナショナリズムも、世界一視主義のグローバリズムも、いずれの瑕疵(かし)も歴史的実験で検証され、人類は新たなる地平に立たねばならぬ時に来ているのではなかろうか。

いわば、いずれにも与(くみ)しない中庸中和とは如何なるものか、和平実現の壮大なテーマを、章を追って書き綴って行きたい。

それは、取りも直さず、「まほろば」としての立脚点を明らかに示し、今日までの道筋、そしてこれからの道標を改めて指し示すことに他ならないからだ。

一、コロナに炙(あぶ)り出された世界地図

昨年暮れに起こった武漢肺炎が及ぼした影響は、この半年間で、世界を様変わりさせた。

これほどの激変を70年の我が人生で経験した覚えがないばかりか、人類一人ひとりもおそらく体験し得なかった惨劇であろう。

世界の感染者が6月末で1000万人、死者は50万人に上り、発祥地のアジアのみならず、欧米各地で今なお猛威を振るっている現状に愕然(がくぜん)とするばかりだ。

鎮静しかかった所に経済復興の解除を下した矢先、第二波の変異と襲来が各国で陸続として起きている。

今、この北都にも、首都にもぶり返しつつある。今冬インフルの季節を控えるに、想像するも余りある。

だが、幸いと言えば不謹慎ではあるが、各国の禍害に比して、日本のそれは0.1%という最も少ない致死率に、世界は感嘆の声を挙げている。

その理由は、さまざまに取り沙汰されているが、日本人の国民性に由来する習慣や伝統が、その好果を生んだとされている。

定かではないが、これらの特質は極めて重要な因子(ファクター)ともいえる日本の心を示しているのではなかろうか。それは、後述したい。

確かに、この危急存亡の秋(とき)にこそ、国の本質というか、国民の性状が浮き彫りにされて来た、この間であった。

二、中国の変貌

この発症が、武漢に在るか米国に在るか、自然か兵器か、あるいは「影の政府(デープステイト)」の暗躍か、との憶測や結論はひとまず横に置くとして、現実的に中国における覇権主義というものがここまでやるものか、と空恐ろしきその国策に脅威するのだ。

と言うよりも、共産主義の唯物思想が、米国やEUはおろかアフリカ・中東・アジアの全域を巻き込んで実行支配しようとするその凄まじき一党独裁の狂気に、信じ難き思いで茫然自失している。

孫子の兵法を徹底的に踏襲した軍事戦略なのか、世界各国への根回し、手回しの及ぶ先の想像を絶する権謀術策の広さ、深さ、久しさ。

敵国アメリカの深部に潜入して最高学府や世界機関を牛耳り、政治報道、経済操作、科学文化の振興まで掌中に収め、世界の統一支配を目論む破天荒とも呼べる権力志向は、島国日本では到底有り得ぬことだ。

大陸思考の桁(けた)違いさに、ただただ唖然とするばかりだ。

そればかりか、チベット、ウイグル、モンゴルの周辺国を残虐な同化政策で民族浄化の名のもとに弾圧と抹殺を重ね、さらに他国南沙諸島を強引な軍事力で領土を略奪拡大し、香港の民主自由をも奪う。

また、日本の離島尖閣や台湾も日々虎視眈々として来襲の牙を向けようとしているではないか。

この北海道や沖縄・九州・新潟までも、知らざるうちに方々に土地を爆買いして自治省に与(くみ)しようと工作活動し、日本も同じ運命の末路を辿ろうとしている。

秦の始皇帝が、一世一代、30年にして全中国を、武力をもって制し、史上初めて統一した如くに、中共開国70年にして世界を掌中に収めようと目論んでいるのか。

三、我が青春の中国史

これらの事々、単に中国を名指しで批判しているのではない。

あの中国残留日本人孤児を、我が子と等しく育て上げた大陸の父母の情を、日本人と同じ思いで共感し、感謝し、愛しているのだ。

どれほどか骨身に沁みて中国に影響されて来た自分の述懐として、これからの共存共栄の道を探りたいと願って筆を起こした。

古来日本は、古墳時代より中国を師と仰ぎ、政治経済、文化宗教において、追いつけ追い越せの2000年間の学びでもあった。

それ以前の無史の時代にも、無尽とも言える渡来と交流があっただろう。

潜在的に日本人は、半ば中国の血やDNAの同系統を少なからず引き継いでいることも確かなのだ。その詳しいことは後章で述べる。

かくいう昭和生まれの私も、江戸・明治の文人のように中国思想の恩恵に預かっていた。

戦後アメリカナイズ一辺倒の潮流に遭って、そこに棹(さお)を差して、当時時代錯誤的(アナクロニズム)ともいえる生き方を求めて来たのだった。

進学もせず、東洋思想哲学の大海に飛び込むことは、余りにも無謀と言えば無謀で、社会的保証も、将来を思慮しない直情的直感的な生き方に、予期せぬ困難が如何に付きまとったか計り知れなかった。

子の親になってみて、よくぞ亡きし父が許してくれたものと、その辛かった心情を察して涙するばかりだ。

五里霧中とは、二十歳前後の自分にとって、正にその名の通りで、手探りで暗黒の坑道を腹這いながら一寸の光を求めて進んでいたのだった。

四、薬師寺へ

最初に、飛び込んだのが、南都の古寺であった。

唐の玄奘三蔵が天竺印度に経典を求めて、故国中国に持ち帰り翻訳して佛教を広めたその唯心論哲学を法相宗とした薬師寺。

その、先ず奈良に向かった自体、知らずして中国との縁が結ばれた初めでもあった。

飛鳥や奈良平城宮の國造りからして長安に倣い、そのままを踏襲して、寺院様式も儀式も何もかも模倣でしかなかった。

伝統的日本美の基礎には唐様が徹底して施されていたのだ。

これは、天皇制、神道、『古事記』の歴史についても深く関りあることで、耳新しい驚くべき事実として後述したい。

北海道の明治百年開拓の新天地に生を受けて、何の伝統も格式も風習もない育ちから、一瞬にして太古の昔に放り込まれた自分は、カルチャーショックでは片付けられない、霊性の奥に希求するものを突き付けられたのだった。

五、古琴の世界へ

16歳の高校一年の時、武満徹という当時無名の作曲家に遇って、前衛という歴史上に無い新しき潮流(ムーブメント)に、過去の踏襲ではなく自力で次代の扉を開く精神を教わったのだ。

一方、同じ頃、数学者・岡潔と文芸評論家・小林秀雄の対話『人間の建設』に出会い、武満とは相反する極めて古い世界に入り込む切っ掛けを掴んだ。

これが「情緒」という日本の核心的自然観人生観に接する初めだった。

若き日々に、この両極端に位置する先人に影響されて、迷いに迷いながらも、一心に我が道を突き進んだ。

この辺りは、過去幾度か記述しているので、詳細は略する。

ただ、岡先生の本に記してあった中国の古楽器「七弦琴」の名曲「幽蘭」を絶賛する件(くだり)に感化されて、これを習得したい一心で奈良から上京したのも、やはり中国文化の影響を色濃く強烈に受けたからに他ならない。

かくも、宗教にしろ、古楽にしろ、書道にしろ、歴史にしろ、振り返れば若き日々に、中国一色に染めなしていたことに、我ながら驚きを禁じ得ないのだ。

六、そして、その後

そして、不可思議にもその後の十年が、さらにその中国思想の中に深く沈潜して行くのだ。

これは、まだ明かしていない青春記で、それが人生や「まほろば」の基礎を作ったといっても過言ではない。そろそろカミングアウトしなければならないだろう。

それは、まほろば36年の歴史と、日々の野良仕事で自然の中に暮らして、初めて辻褄(つじつま)の合う物語と成って来た。

これが、古代中国に飛び、さらに日本歴史の深層に関わり、これからの生き方の新たなる展望を開くものと気付き始めたからだ。

次号、そこから口火を切りたい。

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。