一、ある日の気づき
「あぁ、これ、これだ!」
「懐しき未来(さと)(以下「なつさと」)」作りも、このままでは腑に落ちないものがあった。
何だろう。
それは、漠然として、未だ捉えられないものだった。
しかし突然、具体的で、実に分かりやすい形で降りて来たのだ。
それは、子どもと年寄りが、一ツ家(いえ)に暮らしている一風景。
特別に珍しいことではない。昔ながらの情景、団欒の姿だった。
ところがそこに、「なつさと」の核心、『これから』の真実が見えたのだ。
「子ども農学こう」。
子どもを、都会の学校から拾って、山野や田畑に放とう。
だが、何かが足りない。理念だけでない、あるもの。
それは、理解ある教師であろうか、それとも、お母さん、お父さん?
どこかの自然教育のカリキュラム?
違う。
親目線、教師目線、学校目線で、またもやここでも、はめ込もうとしている。
現代教育の代替えではない、根本的に、何かを据替えねばならなかった。
二、「学校以前の学校」
それは、ゆったりとした同じ時間軸を歩み、同じ空間を共有できる相手。
ズバリ、子どもに、お年寄り。日本人の4人に1人が高齢者。
今、あなたの出番ですョ。
この結びつき、ペアこそ、世の中を変える起爆剤。
「学校以前の家庭学校」こそが、必要だった。
昔は、当たり前にあったことが、今はない。
世の中の歯車が狂った原因が分かりますか。
この最初のスタート地点に戻ることが、最も大事なことではなかろうか。
昔、「年寄りっ子は三文安い」と言われた。
成程、両親が家業に忙しく、祖父母に預けられた。
その典型が私だから、確かに甘えタで、三文どころか、百文も安い。
しかし、信心深い祖母や、樵(きこり)の祖父の昔語りから、授業では得られない無形の知識や情緒が、魂に染み入るように入って来た。
そこに親の躾の厳しさが加わり、逃げ場の祖父母の懐があったなら、どんなにか柔軟で率直な心が育つだろうか。
子どもは、教科書には書かれていない人生を生き切る知恵を、年寄から授かり、老人は、はち切れんばかりのエネルギーを孫から与えられ、明日一日の寿命を延ばす。
この廻る輪が小さな家庭で自転し、ここで心を養い、情緒を感じ、人の優しさが育てられる。
三、「みんなの家」
動物の生死、植物の生死、人の生死、いつも生死は隣にあり、身近だった。
家は、生まれ来る嬰児(えいじ)の分娩床と、あの世に逝く年寄りの死に床の現場であった。
生死が一体になって、家庭の中に棲んで、人生のありのままを、幼子は見ていた。
子どもは、人生の終始を見届け、里の山川にスッポリ包まれていた。
その時、「揺り籠から墓場まで」の死語が、「なつさと」で甦るさまが目視できたのだ。
「自然分娩」の吉村正医院のような安心して自力出産できる産院や産婆さん。
一日中、畑で遊び、林で遊び、川で遊ぶ。勉強なんか、やりたい時に始めればイイ。
いずれ、猛烈な向学心に燃える時が来る。それで充分、ものになる。独創的な発明発見が叶う。
そして恋をして睦(むつ)み合う。結婚式は、何式でも自由でイイ。神・佛は問わない。みなの祝福さえあれば、それが一番。
仕事は、やりたい事をやって、村内で物々交換もよし、地域通貨もよし、金本位でもよし。
たくましく生き抜くところに物は、必ず付いて来る。
そして、やがて後進に託し、枯れるように、お迎えに身を任す。
この一生の中核こそ、子どもと年寄りが一緒になって学んで遊べる垣根のない遊び場だ。これが、中心(センター)ゾーンだ。
「みんなの家」
野良仕事も、食事支度も卓袱台(ちゃぶだい)も、娯楽も勉強も団欒も、いつも一緒だったら、どんなに楽しいだろうか、嬉しいだろうか。
「老人ケアホーム」には、いつも子どもが行き来して、賑やかで笑い声が絶えない。
そして、最期はみんなで看取り、「逝(い)ってらっしゃい!」と明るく送り出し、樹木葬で遺骨は自然の栄養となり、記念となり、一体となる。
その杜(もり)こそ、遺影なのだ。
いつもいつもここで生き、ここで眠り、ここから起き出す。
また、この村に来たくなったら、神さまにお願いして降ろしてもらったらイイ。
あの世も、この世も一緒くただ。
四、ローカリゼーションとセパレーション
3月の一週間ほど、文化人類学者の辻信一先生とご一緒した。
先生の説かれる「ローカリゼーション(地方化)とセパレーション(分離)」。
地方を離れて都会に向かう若者たち。
なぜ、村を町を捨てるのか、離れるのか。
分業化する都市の歯車、グローバリズムの一齣(こま)になってしまう運命。
学歴社会と金融世界の仕掛けと罠。
ズタズタに切り裂かれた社会の構図、都市と地方、親と子。
その初めが、家族にあったことに気付かされる。
世界の分断化の初めが、この家庭にあったのではないか。
国家の分離化も、立身出世のために、慎ましい田舎暮らしを後にした。
この明治以降の富国強兵、殖産振興で駆り出された若者たち。
だが、150年経った今の都会に、希望という名の若者は消えた。
荒れ果てた邑(むら)には、もう老人しかいない。
戦前の完全自給100%から、今や37%に落ち込み、食糧難では6、7割方(がた)が餓死する。
戦後教育の一辺倒により、家族の絆が絶たれ、家庭が崩壊してしまった。
核家族という貧困が、温かい日本の心を奪い、伝統の繋ぎ手を失った。
三代、四代という大家族の中でこそ、人としての自然を学ぶ場があった。
ゲームやパソコンに子育てを預けてしまう子どもの将来は、やはりバーチャルリアリティ。
その頭脳から想念する仮想時空には、無限で無尽蔵な大自然のクリエィティブでダイナミックな動きは露ほども見れないだろう。
混然一体とした家庭環境と混沌一如とした自然環境こそ、育みの森であり、学びの教室だった。
しかし、今荒廃の都市から、「コミュニティ、コミュニティ」と、若者は盛んに叫び始めて来たと、辻先生は言われた。
確かに、原点回帰のムーブメントが起ころうとしている。
田舎へ、限界集落へ、Iターン、Uターンラッシュが始まろうとしている。
コロナ禍の中で、「これではいけない」と、模索し始めた若人の脈動が日本中で打ち始めた。
五、3S政策から3S開放へ
戦後、GHQ(連合国総司令部)に敷かれたScreen、Sport、Sexの愚民化・3S政策は見事に当たり、75年後、勤勉な日本人は、本当の痴呆で怠惰な日本人になった。
無思考、無気力、無抵抗は、誰かの思うままの操り人形になってしまった。
政治も経済も、文化もメディアも何もかもが、侵略され、支配されている現状に国民は気付きもしない。
だが、若者は、
「Slow、Small and Simple」LIFE。
「ゆっくり、小さく、簡素な生き方」へ、本能帰趨(きすう)で舵を切ろうとしている。
大きいことを望まず、出来るだけ小さく、早く早くと急かさず、ゆっくりとゆっくりと息長く。
それにSilent「静かに」を加えるなら、3Sから4Sへ、静かに静かにと、さらに意味合いが深まる。
そして、3(スリー)ェア。「フェア、ケェア、シェア」。より公平に、助け合い、分かち合う。
そうすると、ひと言「楽(らく)」になる。楽々(らくらく)、楽しい、楽(らく)ちんになる。
これが、「なつさと」の日本の心、「小国寡民」の老子の哲学です。
もうそろそろ、無明長夜の迷いの帳(とばり)から目覚めませんか。
六、「死に場所」は「生き場所」
長沼「メノ・ビレッジ」や新得「共働学舎」もキリスト教信仰に支えられている共同体。
同じように、障碍者と生きる余市豊岡の「恵泉塾」も、主(あるじ)の信仰の奇跡の数々に支えられて発展した、という。その教師のお話に、
「老人の信者のためにホスピス(死を待つ館)を建てました。
でも、不思議なことに、みな死ななくなったんですね(笑)。
それで、養老院ホームケアを建てることにしました。
すると、瞬く間に寄付金が集まって建ったのです。そして、みな生き生きと満足に暮らしているのです」
その時、まほろば40年の間、共に老けて行った同年輩のお客さの顔と顔が思い出されて来た。
皆それぞれに、最期は独りとなり、孤独死で逝くんだなー、知らない介護士さんに看取られて、病院で逝くんだなー、と思われた。
これは、寂しいことと我が身に代えて、終活を思わずにはいられなかった。
それよりも、みんなからワイワイ、ガヤガヤと看(み)送られたなら、バタバタでもドヤドヤでも、どんなにか安心して、心満たされて逝くだろうか、と思われた。
ピンピンコロリで、嬉しいな(笑)?
「子ども農学こう」だけでは片手落ち。「老人憩いの家」も併設せねば。
いや、一緒くたがいい。
毎日のように、葬儀と出産で「なつさと」は、悲しみと歓びの涙で、心グシャグシャ。
その目が回るほどの忙しさも「いいなー」と光輝いて見えた。
村のみんなから看取られて逝き、村のみんなから迎えられて生まれる。
何という生き生きした明るく楽しい生死の風景だろう。
見た目は静かな村、中身は賑やかな村、面白い共同体だなー、と思いませんか。
七、見違える老人、若返る晩年
日々、衰え行く感性と肉体。
どうしようもない老化の現実。
いずれ、誰もが、辿り着く死出の道。
だが、世に自撮り写真でユーモアたっぷりに周りに笑いを提供している90歳を過ぎたお婆さんがいる。
21万人越えのフォロワー数。撮るのが、面白くてしようがない、屈託のないお顔は美しい。
同じく90歳を過ぎても溌溂(はつらつ)としてフィットネスの最高齢インストラクターがいらっしゃる。
年齢は、ただ数だけの話。筋肉は、幾つになっても鍛えられて蘇る、と。ピーンとした鋼鉄の姿に、こちらの背筋が正される。
100歳越えで、世界最高齢のスイマー女史が、数百もの記録を塗り替えて106歳で大往生した。
それは膝を痛めた80歳から水泳を始めた、という。
既に、55歳で能楽を初め、67歳で舞台に立っていた。何事も習うに、遅きことなし。
99歳の徳島の男性が、17年かけて放送大学を卒業したという先日のニュース。
いくつになっても学問は始められる、これから社会奉仕で世にお返ししたい、と。100歳からが、華の人生!
改めて、人間に潜む未知の可能性に万歳!万々歳!である。
何と、人生は豊かで、素晴らしきものか。
何時でも、誰でも、いかようにも、前向きでGO!GO!
望めば、幾つになっても挑戦できる未知の分野が、降って来る。待っている。
しかし、それは、周りのサポートがあっての感謝を忘れない。
何かに挑戦する後期高齢者に刺激されて、「みんなの家」はテンヤワンヤの大賑わい。
玩具箱(おもちゃばこ)をひっくり返したような煩(うるさ)さに、耄碌(もうろく)なんかしていられませんヨ!!
ここには、こぢんまりしたスポーツセンターや音楽ホール。
みんなで持ち寄った図書館もあればプールもある。
祈りの瞑想室もあれば、教会寺院神社、森林墓まで揃っている。作業場に台所の厨(くりや)も大所帯。
農産物・加工品の泥臭い売り場もあれば、お洒落なカフェテリアや地場レストランが素敵だ。
あぁ、これだけで、何処に出かけなくても満足満足の小さな村が出来上がっちゃっている。
早速、小学6年生の女の子が、「私、早く土地を買いたい!」と、貯金箱をもって申し出て来た。
「頼もしい限り!」
対応が遅い、早く何とかしなくちゃ。
お裁縫で妹に服を作って着せたり、泥鰌(どじょう)を掬(すく)って皮を剝いて「お塩をしたいので、お塩ありませんか」と尋ねて来たり…。
お料理は無論なこと、保存食・発酵食・伝統食も、お母さんを見習って作ります。
「なつさと」の将来は安泰、日本の未来は希望の光に輝き、再生の道が開かれています。
八、母系社会へ
寅さんの「男はつらいよ」(第五作「望郷篇」、昭和45年8月)の舞台にもなった仁木町銀山駅の真下に「女代(めしろ)神社」が鎮座している。
「なつさと」のメンバーで、ここに立ち寄った時、天然記念物の三本杉が鳥居を前に、神木松の大木が社(やしろ)の横に、静かに聳(そび)え立っていた。
その神(かみ)寂(さ)びた風情に、一同一遍(いっぺん)に好きになってしまった。
国に神社多しといえども、なかなかこの雰囲気は醸せない。
その真下一直線に、お寺あり、授産施設の銀山学園あり、そして手放そうとしている農地があった。
「なつさと」構想には、ここ一帯も視野に入っている。
所が、である。
この3月20日にお参りに行くと、何と神社の横の松の大木が周りの木々と共に伐採されているではないか。
これには、大ショックで、仲間は意気消沈してしまった。
「何故、無残にも伐(き)ってしまったのか?」と。
全く、あの何とも言えない佇まいが一遍に消し飛んでしまった。
横の大木が有ると無しとでは、こうも風景と印象が違うものか。
周りには、切り倒された残骸が転がっている。
心が痛み、何とか老木を弔えないか、と密かに念願した。
これは、神社、村人氏子(うじこ)の所有である。しかし、念ずれば、花は開いた。
どういう訳か、径1mもあるその大松が、不思議にも、我が家の前に今、並べられている。
これは、仲間の必死の請願と緊急の行動、そして村人の善意で、今此処に在る。
その樹を見ると、愛おしくてならない。
「100年以上もの長い間、ご苦労様でした」と、懇(ねんご)ろに供養した。
聞けば、内芯が腐って、神社が倒壊する恐れがあっての処置であったとのこと、安堵したことは言うまでもない。
これを再生して、「なつさと」の看板に衣替え、再び大江銀山に屹立(きつりつ)するでしょう。
樹の精霊が感応道交して、我々の志に寄り添い、ここに神さまが仕向けたとしか、言いようがなかった。これは、神事であった。前途を祝う、お告げのように感じられた。
「女代神社」の御祭神は「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」。
即ち、造化神の「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」「神皇産霊神(かみむすひのかみ)」「高御産巣日神」三柱の中、物事を産み出す大本の神さまで在(あ)らせられた。
これは、願ったり叶ったり、「なつさと」の願いそのものである。
更に日本の主神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」をお迎えし、穀物・食の神「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」、土の神「埴安比賣命(はにやすひめのみこと)」を従えるに、三神ともに女神様であることが「女代」の名に相応しい。
そして、更に「少彦名命(すくなひこなのみこと)」までお祭りしているとは!!!(「会津から近江そして倭へ―その10」大橋しのぶ著 まほろばだより2020年8月号参照)
この「少彦名命」は常世(とこよ)の国から訪れた小さな神様(まるで、アイヌのコロポックルのよう)。
これもお祭りする「大己貴命(おおあなむちのみこと)」即ち 大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをされたという。
更に農業・発酵・薬草の神「神農」(『富士宮下文書』では日本人の祖)の子で、穀霊、酒造り、医薬、温泉の神として信仰されているから縁が深かったのだ。
家系「沙沙貴(ささき)神社」とも所縁(ゆかり)が有り、遠き祖先のお導きに感謝するばかりだった。
そして、この伊勢と出雲の神和合弁の御業(みわざ)には、国を挙げての大事業と察する。
それが、ここに在ったのだ。起点である。
誠に、「懐しき未来(さと)」作りで、実現したかったことが既に、このように神さまがお膳立てして下さっていたとは!ありがたくも、勿体ない!!
米も、醸造も、医薬も、温泉治療も、神さま軍団が、これから大いに助っ人して下さることでしょう。
そして、「女代神社」の名に予感される、これからは子どもたちをみんなで育てる、かつての「母系社会」を思い起こさせた。
これまでの権力闘争・金融優先に明け暮れた男中心の人類史に終止符を打とう。
そして、女性を軸にして男性はサポートに回り、みんなで子孫を生み育てる大家族制の運営こそが、一番平和への近道のように思われた。
この倒木には、意味があった。
「これまでの世の中を切り倒し、新しい世界を生み出せよ」との声なき御声(みこえ)と拝受する。
いよいよ、新しき時代が、ここに始まったのです。
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宮下周平
1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。
自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/
無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。
世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。
産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。
現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。