富士山麓「あすみの里酢」

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

一、祖父の実家、富士吉田にて

我が祖父が、富士山麓から出奔して150年。

本家が83代目、2113年間、一族はその地・明見に定住して離れることはなかった。

崇神(すじん)天皇以前から古代縄文人の一族が集落を成していたのであろう。

古墳時代から神官の職を継ぎ北東本宮小室浅間神社を護り続けた。

「富士王朝」の末裔として、徐福を迎え、古文書を守り、今日に至る。

だが、不思議と一族は黙して語らず、富士の霊峰に抱かれながら日々を何事もなく慎ましく送っていた。

その静謐(せいひつ)な村から、明治年間、何を思ってか、史跡を飛び出し、寒天の北方の地・釧路に辿り着くもわずか27歳にして帰空した亡き祖父。

そして、その祖父の顔も知らずに逝った亡き父。一度たりとも、祖家に辿り着けず、無念の泪に暮れたであろう。

父の従弟(いとこ)に当たる宮下利夫さんも、95歳の天寿を全うして、一年前に逝った奥様ヤス子さんを追うようにして、先日眠るが如く帰天した。

我が祖父の名「宗泰(むねやす)」を、利夫さん夫婦が子に付けたが、2歳で早逝(そうせい)された。

私が初めて15年前宮下家を訪れて来た時、ヤス子さんは我が宗泰が帰って来たかと、一晩中泣き腫(は)らしたという。ヤス子さんは、宮下の本家筋に当たっていた。

利夫さんは、自宅で家族に見守られながら、子孫に、

「おじいちゃん、ありがとう! おじいちゃん、ありがとう!!」

と、手を握られながら、利夫さんは眼に涙を浮かべ頷(うなず)きながら静かに息を引き取り、浄土に身罷(みまか)った、という。

今時、家族みんなして、こんな温かい最期を看取り看取られることは、万に一つもない時代になった。

家に帰ることも、病院の器具を外すこともなく、天寿を全うするなどありえなくなってしまった。ほとんどが病死の床であろう。

まさに小さな日本の片隅にあった奇跡のような大往生であった。生前も我もなく、欲もなく、佛さんのような方だったから。

山梨県南都留郡富士吉田市の小明見に祖父の実家を2006年に捜し当てて100年振りの邂逅(かいこう)を果たしてからもう15年も経ってしまった。

その一族に初めて会った時、利夫さんの独特な風貌、骨格、雰囲気が父にそっくりだったので「親族だ」と、直感的に確信を得たのだった。まるで血筋の生き証人だった。

今にすれば、最期にもう一度、会いたかったが、叶わなかった。営農を始めて、身動きが取れなくなって来たことも大きい。

しかし、それも行く河の自然の流れなのだろう。

最近は、「ああすれば良かった」、「こうすれば良かった」という後顧(こうこ)の憂いを残さないようしている。

「これで良し」、「神様の思し召しだ」と言い聞かせるようにしている。そうすると、不思議と次の展開がスムーズに運ぶ。

今回の旅は、叔父へのお参り、最初の起点だけを定めて、どのように動くか、予定を立てずに無人の案内を待った。

二、叔父の口から、

夕刻のお参りから、小明見の実家にて夕食の膳が用意されていた。

6、7年振りの水入らずかもしれない。この家の主・宮下勝也(かつなり)さんと、近所で機織りを営む親戚の勝俣源一さん。

昔は、軒を連ねて機織り機の音が、夜なお響いていたが、市内に幾千軒あった「甲州織」の織物屋も今は百軒にも満たないという。

実家も、勝也さんのお父さんの代で終えた。あのグンゼも、ここ甲州が本拠地である。

かつて、徐福が富士王朝のこの地を終(つい)の棲家(すみか)として定住し、様々な知識技術を伝えたという、そのうちの一つが機織りだった。

2000年以上の伝統も、風前の灯になってしまった。

その源一さん、地域の子供たちの情操教育のために稲作水田「めだかの学校」を続けている。

その源一叔父さんの娘さんに、下倉樹(いつき)ちゃんがいる。彼女は、今や発酵醸造界のアイドル的エキスパート。

全国に年200回も講座を持つ「調味料エバンジェリスト(伝道師)」として伝統食品の普及に余念なく、東奔西走している。血は争えないのかもしれない。

タカコナカムラさんの「インティグレードマクロビオテック」の家内の講座受講生だったということで、後日親戚だったことを知り、互いに驚いたのであった。

その樹ちゃん、「お父さん、お米を何かにしたら」と言った。

「何に?」「酢に」

「どのくらい」「500㎏」

「そんなに出来ないよ」

「【心の酢】にすれば、良いのに」

と言われたそうだ。

すかさず、私は、

「えぇ!」

「今、【心の酢】って言われましたね。それって、うちで扱っていますよ」

互いにビックリ仰天。ここで【心の酢】の名前を聞くとは。

すると、横にいた、従弟の勝也さんが、

「えぇ! それ戸塚だ。おれの銀行の後輩。新宿で一緒に飲みに行って、酔って二人してタクシーで帰って、大月あたりで金が無くなったが、家まで送ってもらった仲。そんで、うちの和美(奥さん)の大月東中学の同級生だよ」

「ワーァ! それは、ないでしょ」と、互いに目を丸くして驚いた。

数分の会話で、スゴイ縁起話になってしまった。

数年前、何故「心の酢」を選択したのか。その謎解きが、また再燃した。

後日、樹さんは札幌の講座後、まほろばを偶然訪れ、店の商品棚に「心の酢」が置いてあり、それが地元山梨産であることに驚いたという。早速「戸塚醸造店」を訊ねて親交を深めたという元種であった。

三、『宮下文書の科学的検討』の著者と

さらに、源一さんが、

「そういえば、鳴沢村の渡辺長敬さんは、同じ植物愛好クラブの同士で、『宮下文書』のことを書いた小林さんという人が居ることを教えてくれた。そんで、その小林さんから本2冊送られて来たんだ。まだ会ってないんだが。」

「その人、小林さん!? その方から、この三月、僕の所にも『宮下文書の科学的検討』五巻の本が贈られて来たんですよ。みんなに知らせて、店でも売っているんですが…」

「えぇ!そうなの」

二重の驚きに、三人して「世の中って狭いね。不思議だね」と言うことになった。

行く予定になかった小林(司馬祜男)さんも、急遽電話をして明日会うことに。

また、「心の酢」の戸塚さんにも電話して、事のあらましを伝えたら、向こうもビックリ。

早速こちらも会うことになった。まさに予定外の予定に、無計画の流れが流れ出した。

四、ケアホーム「なでしこ」を尋ねて

小林さんの「なでしこ」というケアホームが河口湖に、何と昨日利夫さんのお参りに行った渡辺家の隣ともいえる近さ。小林さんが毎朝散歩するすぐ前であったのだ。何ということ。

早速、従弟で亡き利夫さんの一人娘・渡辺貞子さんと源一さんと一緒に「なでしこ」寮に。

ちなみに当地では、この都留(つる)の隣の大月が「かぐや姫伝説」の地とされているのだが、この貞子さんは、「もしやして、そのかぐや姫かな?」と思わせる、何とも言えない控えめな佇まいが古風なのだ。ご夫婦して教員を退職されたところである。

時、コロナ禍で、施設の警備が厳重で、ワクチン証明書がなければ、直に面接できない。

マスクのままドア越しに、携帯電話で面談するという、何とも滑稽な風景であった。

小林さんの第一印象は、学者のような渋い風貌、昭和の懐かしい面影に、嬉しさが募った。

小林秀雄や白川静のような文士学者に邂逅したような興奮があった。

源一さんら、こんなに近くにいて今まで縁が付かなかったこと、そして、北海道の遠方の私の介在で縁が結ばれたこと、何か触媒のような働きで、人生の妙味を感じた。

「是非とも、散歩がてら渡辺宅でお茶飲み友達になって下さい」と貞子さんと共にお伝えした。

そして、何とそこに、小林さんとの縁を繋いだ長敬さんが前を通りすがったのだ。

「あぁっ!長敬さん!!」

源一さんが、驚きの声をあげた。その瞬間をカメラに収めた。

(こんなことがあるのか!!!到底、ありえないシュチュエーション)が目の前に起こった。

居るはずのない渡辺長敬さんが、何故、突然ここに現れたのか。唖然として四人顔を見合わせた。

神様が、まさに用意してくださったのか。

「行き当たり、バッチシ!!!」である。

五、「心の酢」戸塚醸造酢へ

その後、樹ちゃんと仲のいい戸塚醸造店のある都留市夏狩に直行。

貞子さんの運転で、源一さんと共に。15分ほどの近さであった。

電話では、話したことのある若きご主人治夫さん。昨晩の会話で、スッカリ仲良しの顔になっていた。

久しぶりの産地訪問であったが、今回は現場の取材というより、その印象を語りたい。

● 本物と似て非なるもの

まず、酢の基本から。

世の中の見た目も同じ酢でも、製法に天地の差がある。

「静置発酵法」という、タンクに種酢(できあがった酢)・もろみ・水・酢酸菌を入れてかき混ぜずにそのまま置き、酢酸菌の力のみで発酵させる伝統的製法酢。

さらに、戸塚さんは熟成に時間を掛けて粕(かす)がゆっくり沈殿した後、その上澄み液だけを掬い上げる。

そしてさらに濾過をしない。白濁しているが、ここがミソで、この中に旨味と有効栄養成分が風味と共に残されている、その秘伝の昔造り、細き道を選んだのだ。

一方、今普及している「全面発酵法」は、原料液に空気を送りながら攪拌(かくはん)して1~3日で大量の酢を造る「速醸法」で、有名企業の機械化学方式である。

ミツカン酢は、何と8時間で完成するとか。ちょっと信じられないが、これが現実。

「心の酢」は、1年半。大企業の速醸法は1650倍の時短、儲かる仕掛けになっている。だが敢えて、真逆な愚鈍な道を選んだ。

● 濾過の大問題点

次に、滓(おり)をきれいに取り去る濾過材・濾過器の普及が、実は大問題。

活性炭で酒の中の雑味や色素、臭い、濁りなどを吸着除去。火落ち防止にも効果あり。

また味、香りの調整にも用いられる。

大手企業にとって、こんな安価で簡単便利、好都合な素材はない。あらゆる調整を、見た目だけ、事後処理で済ませられる。

本来、入るべき物が入らず、入らざるべき物が入っている。どの食品業界も同じ。

兎に角、健康より利益優先のごまかしが幅を利かせ、彼の正義感はこの不正・不自然が受け入れられないのだ。

● 酢酸菌のない酢は酢でない!!

澱(おり)引き剤やフィルターの濾過方式が、酢酸菌を除く。これで最も大切な酢の機能性を奪うのだ。

2019年11月、酢酸菌には、花粉症などのアレルギーを改善するとの研究発表があった。

肝心の酢たらしめている本体・酢酸菌が欠如しているのだ。

次に参考資料として、「酢酸菌が免疫バランスを調整する仕組み」「酢酸菌を含む食材」「酢酸菌が乳酸菌と結びついて、マクロファージ(免疫細胞)活性が起こる」エビデンスを示したい。

最新の研究とデーターは、伝統的醸造法に軍配を上げている。

ただ酸っぱいだけで、酢酸菌が無ければ、何ら酢の意味を為さないことが理解される。

戸塚さんのは無論、生粋の「静置発酵」「長期熟成」そして「無濾過」の純米酢。

しかし、さらに奥がある。その奥たらしめているのが、戸塚さんの醸造場である。

そして、それは一口に言うと、運の人というべきことである。

何故、運と酢が関係あるのか、いや人生万般、運が大事の大事を運ぶのだ。

そして、その運は、その人の徳であり、生き方の覚悟である。

● 戸塚さんのこれまでの足跡

その履歴を足早に辿ろう。

① 30歳の時、銀行の営業マンとしてお客様周りで、お得意先で廃業寸前の酢屋の先代に出会い、後を継ごうと立志したこと。

② 2014年の大雪で、上野原の工場が傾き、たまたま夏狩地区にあった紀伊国屋の豆腐と漬物屋の工場が休業ストップ、撤退したところを幸いに取得できたこと。

③ 富士山北麓の最端の雪解け水、「平成の名水百選」に選ばれた十日市場・夏狩湧水群の湧水場から仕込み水を引き込めたこと。

④ 発酵用の1000リットルの和甕(かめ)(大甕)の中古品を鹿児島の黒酢工場から格安で入手したこと。

2017年の鹿児島湾地震で、地元の甕が割れて、誰ももらえなくなっていた。まさに生ける遺産、国宝である。

⑤ 先代の上野原醸造場の熟成用甕をそのまま委譲して貰い受けたこと。

それが、3~400年前の江戸期の甕であった。上野原で50年、その前は黒酢の本場・鹿児島福山から来た蔵付き酢酸菌常住の甕である。

今のものは、型枠で成形した既製品、どうしても焼成が甘く脆弱である。

⑥ 発酵場の新しき木造が、地元上野原の80歳の由森(よしもり)棟梁が、3、40年保管していた銘木の数々を惜しげもなく使って下さったこと。

「もう歳も歳、この先使うところがないんで、ここで使ってくれてむしろありがたい」と。 

梁(はり)がスゴイ。幅1mもあろうか、寺院用建材としか思えない古材。

その組み方が中心軸を合わせて左右が暴れても、狂わないように組んでいる匠の技。

見た目の繫ぎ手の処理でなく、粗暴のようで大胆細心である。先を見越して組む。今どう見られようが、後の後を見据えての計算。だが、見た目も美事である。

あの厚く長い欅(けやき)の生板を、連なり継いで、これも惜しげもなく足場の廊下に使ったのには、仰天した。

こんな贅沢はどこも許されないだろう。何十年、何百年経って「蔵付き酵母」「蔵付き酢酸菌」たちの天下一の巣城になるだろう。

⑦ 隣には、紀伊国屋の漬物工場がまだ放置されている。これを活用して、新たなる展開が待っている。

ここを15年に取得し、ようやく19年11月、コロナ到来を払うかのように移転された。実に、象徴的である。

⑧ 麹菌で米が糖化し、酵母によりアルコールになる酒精発酵2か月で「酢元もろみ」が出来る。

それを大甕に移して水と種酢(酢酸発酵を終えたばかりの酢)の酢酸発酵に3か月。

最後に発酵室の古甕に移して酢酸菌膜が拡がりながら良質の熟成発酵に8か月。一年中、発酵室の温度を一定にしているので季節変動による製品のムラがない。

計13か月から売り切るまでの凡そ18か月間、1年半寝かせる。この待ちの時間が、本物というべき酢に昇華されている。

流れる風や空気、温度・湿度を読みながら、香りや滓(おり)の表情を見つめ、自分の感性を研ぎ澄まして行く先、智慧と工夫が織りなす末に、自然自身が納得する酢が待っていた。

六、そして、さらに思うこと

⑨ 以上、兎に角、戸塚さんは、ラッキーなのだ。運がいい。祖先の徳と己の積徳が物を言っているのだろう。

⑩ それに加えて、研究熱心。そして、アスリートでもある。毎日走り込む。

年に7、8回のマラソン大会に参加。兎に角、抜群の体力がものをいう。体の切れがいい。

シャープなのだ。頭の回転も速くなる。その体力と奥さんとの二人三脚で、55,000リットル/年、あの500mlで5万本を作り込む。まさに醸造は、体力との勝負だが、後に引かない。

⑪ それに、菌が呼応してくれるかのように、歯切れよく、リズミカルに、順当に軽やかに発酵してくれる。

この律動が大事なのだ。物は、その主人に似る。というより、その物である。

主人が健康であるが故に、酢も健全である。酢もケンカしない。元の上野原時代から、大阪の老舗もやし屋・樋口さんから酒造用麹菌を先代と同じく受け継いでもらっている。

全5000(L)中、4000(L)を出荷に、1000(L)を種酢として次年に継いで、その繰り返しで進化する。

ここに徒(いたず)らに、別種の麹菌を入れると突然に変異株が生じて、相性が悪くなると全体が影響を受ける。そこの抑えが大事で、無理のない自然の変異を尊ぶ所以だ。

七、何故、0-1(ゼロワン)テストに合格したか。

簡略に、戸塚さんの醸造法を紹介したが、詳細を説くより、何故「心の酢」に、0-1テストで軍配が上がったのかということだ。

一昨年、商品の見直しをした。店内の4、5000品目の商品を一から調べ直したのだった。

定番の調味料も、条件なしにチェックした。

ところが、酢に限って開業以来の扱い酢がプラスにならない。

仕入れの始めの時は、確かプラスだったのに‥‥‥これは想定外、異例の事だった。

あらゆる条件は、他のメーカーを凌駕して余りあるハズだった。

自らの原料生産から工程、出荷に及ぶに非の打ち所がなかった。だが、どうして最後は、「心の酢」か。

それは、当事者にとって長いこと疑問であった。だが、これは、水質の明らかな違い、良質な有機栽培米、そして、見えるもの以外の氣の世界、精神(スピリット)の世界を物語るものであった。

① 世界一の水

水質、ことに何百年かけての伏流水は、天然無為の業で人為の加えられない所、決定的に良質な酢を生む主因、最大の条件と考える。

世界遺産・富士山の伏流水の仕込み水は、約1万年前(11,000~8,000年前)の大規模な玄武岩層(バサルト層)約1000mを浸漬浸透して、大量の天然水素を発生し、ケイ素1.6㎎/100ml、そしてバナジウムは7.1μg/100mlを含む天然水を、長きは100年もかけて湧出する。

◆この水素・ケイ素・バナジウム三点セットの揃った水は世界の何処にも存在しない。

◆そして毎時1000トンを湧き出す量も世界一である。

湧水場から引き込んだ採水で、さらに非加熱、無菌濾過の生き水である。

バナジウムは、体内での酸素運搬や脂肪代謝などの機能性に特化した希少ミネラル。血糖値を下げ、糖尿病改善の卓効の指摘もある。

ケイ素にはコラーゲン、エラスチン、ヒアルロン酸の美容3大要素と血管や骨、爪、コラーゲンの再生・構築・補強維持など組織形成の重要な役割を担っている。

大量に含有する水素は、抗酸化元素の最たるもので、新しいエネルギーの起爆剤にもなり得る、知っていて知らない未知の元素でもある。

天然水で酸化還元電位が平均50mVという値は通常は有り得ず、抗酸化作用が著しい。

工場用地採水の水道水や井戸水との決定的差が、ここに見られるといっても過言ではない。

腐敗に走ることなく、この微量ミネラルとアルコール発酵、酢酸発酵の過程で他社にはない成分を醸成させ、想定外の機能性を帯びるに違いない。

これは他の優れた素材や技術を以てしても立ち向かえない地の利から来る天恵であり、王道でもあった。まさに銘水中の名水である。

● その知見がない22年前のエリクサー開発当時、富士山麓水をまほろば酵素の発酵液に入れ、セラミックにも玄武岩の沸石を素材として選んでいたのは、今思えば祖先の導きと信じられる。

② 場の良さ

道具仕立てと設えの良さ。窯と古材。この巡り合う幸運は、何事にも代えがたいものだ。これは祖先の恩徳が降って来ている。感謝せねばならない。

生き物にとって、ステンレスの金属やFRPの石油製品は、馴染めないだろう。

土の焼き物、板の囲いが、何よりも親和性が高くて、棲(す)みやすく、自己の特性がより発揮できるイヤシロ場、イノチの揺り籠なのだ。

③ 素材の良さ

県内の米は自家用米が多く、加工米を産出する広い田が少ない。そこで、巡り合った山形県庄内の有機無農薬栽培の「太モモ会」の「コシヒカリ」を原料としている。

ちなみに、「米酢」1(L)醸すには120gの米が必要。だが、表示基準JAS規格では40g使えばよい。

その不足分は、醸造用アルコールや酒粕・米粉などで添加増量すれば承認され、「純米酢」とのレッテルが貼れる。

この規格を制定する食酢協会は、大手企業が仕切って取り決めている。どこの業界もこの構図。

すべて抜け道・抜け穴。大企業の都合の良いように仕組まれている。日本は救い難い。

だが、戸塚さんは4倍の160g使っている。天然醸造の純米酢の重みを知るべきである。

● だが、ここで量をむやみに増やせば良いというものではない。

中には10倍近く米を増量するところもある。だが、頃合いや適宜という境が何事にもある。

先代は600㎏の米で5000(L)作ったが、戸塚さんは、480㎏で同量が造られるようになった。

それは何故か。麹の糖化率の高さだ。その高さが即アルコール度数ともなる。

度数が一定ならば、材料をより少なくして効率化すれば、経済的でもある。少ない材料で、多くの量。労少なくして功多し。そこが技術力。

それは米で麹を作る技術を問われる。具体的には、深部まで麹菌が食い込む、ハゼ込むことこそが、秘訣なのだ。材料の多さではない。

そこが第一歩であり、それが最後まで響く。満杯の糖化力のある麹造りがポイントだ。

「へうげ味噌」の羽場さんで学んだことでもある。だから、最初が肝心で、第一歩ですべてが決まる。これは何事にも通じる。

④ 素人の潜在力

戸塚さんが、何よりも素人だったことが幸いしている。日本の蔵元の跡継ぎの多くは、農大の醸造科出身である。

生まれながらの環境も、言い伝えも、学識も体験も抜きん出ているだろう。

全く酢のスの字も知らないド素人との差は、それは計り知れない。

戸塚さんの真っ新な0(ゼロ)からのスタート。知らないが故に、何事も新鮮で、誰にも頼れないが故に、真正面から真摯に取り組める。精進しかない。

何事にも、この一途さが必要なのだ。驕(おご)りと慢心は眼を濁らし、技を鈍くする。兎に角、真っ直ぐな志こそ、何事をも凌駕出来る力なのだ。

御曹司(おんぞうし)は、かかる後続の素人を見縊(みくび)ってはならない。

後生畏(おそ)るべし。夫婦二人の独力と協調が、何よりも素晴らしい育成場を生み、見えない氣の調和(ハーモニー)を醸し、微生物をして活溌溌地(かっぱつはっち)として感化醸成して止まない。

⑤「小国寡民」のシンパシー

ここに「小國寡民」の生きる哲学がある。徒らに拡大しない。己の手の届く所、思いの及ぶ辺りで止める。

他の分を侵さず、他の域を脅(おびや)かさない。歩む範囲で孜々(しし)として己の分を果たす。

引き際が大事なのだ。小さき野花として、ひっそりと己の花を咲かす。

一から十までの工程を、人任せにせず、全て手間暇かけて自分で手掛ける。

眼の届く限り、心の及ぶ限り、誠心誠意を尽くす。これが「心の酢」命名の真の意味なのだ。分業化は、心を喪うのだ。

遂に、「0-1テスト」で、何故プラス反応が示されたかを、ここで了解出来、最も大切なことを学んだ。

0-1テストの結果の理由が、その場その時分からずとも、やがて頷く日が訪れる。ここで又一つ、0-1テストに対する確信を深めることが出来た。

戸塚さん、ありがとうございます。

八、「あすみの里酢」「古文書の昔酢」いつか、きっと

兎に角、絶対条件が小さくても、必須条件が円満に揃っている戸塚さんの今後を、大いに応援したい。

夢は、源一さんと勝也さんや明見の皆さんの無農薬米で、名付けて「あすみの里酢」「古文書の昔酢」を戸塚さんに作って頂き、まほろばオリジナルを出すことだ。

味噌・醤油、砂糖・塩のオリジナルを作ったまほろばとしては、是非最後の調味料・酢を世に出したい。

それには、樹さんの熱意や県の助力も戴きたい。

樹さんに連絡すると「お父さんの米造りに、より生き甲斐が生まれますように、と願っていたことが、実りそうで嬉しい!!」との歓びの返答を戴いた。

親孝行の健気(けなげ)な娘心が実現されますように。

一窯500㎏の米から5000(L)の酢が、500mlで10,000本/半年の出荷量。ここは是非、県の特産物として、山梨県にも手伝って頂かねば。

九、県庁を訪ねて

その前日、小泉武夫先生のご紹介があり、山梨県庁農政課の六次産業振興課を訊ねた。

それは、先生が県のフードアドバイザーとして指導された「トマト麹」など数々の商品をまほろばに送って来られ、その扱いを問うものだった。

自然食品業界と6次産業化の現状をお話しさせて頂いた。

そこで、山梨と北海道の人々の生産交流が叶えば嬉しいことだった。

まほろばの仲間で立ち上げた「懐しき未来(さと)」づくりプロジェクトの「発酵の里」として、お互いの里造りの助力になれば、幸いこれに過ぎることはない。

その接点に是非、戸塚さんの縁結びのご協力を乞いたい。

十、増川いづみ博士とのシンクロ

その前日、小淵沢のユニバーサルバランス、テクノAOの増川いづみ代表を訪問した。

彼女とはエリクサー製造後、交友を深め、さまざまな閃(ひらめ)きを与えて下さる神秘的存在。

水や電磁波の世界的権威であり、あらゆる知見と見識は目を瞠(みは)る。

ミシガン州立大学で栄養学、電子工学の博士号を、MIT(マサチューセッツ工科大学)で量子力学の修士号を取得。

生物分子学、マリンバイオロジー、地質学、発酵学、鉱物学、薬草学、古文献など多岐にわたる分野、NASAの研究員、ロシア科学アカデミーの会員でもある。

近年、音叉振動などによるサウンドヒーリングセミナーを実施し、多彩極まるマルチな才媛だ。

帰郷後、それとなく山梨の酢のことをお話させて戴いた。

すると何と、「心の酢、知っている。7、8年前、ラベルを見、白く濁りがあるが、これが一番美味しいと直感した。

事実、癖がなく、素直な味で、一遍に気に入った。黒岩東五先生の鹿児島大麦黒酢とこれは最高の酢。

血液をきれいにし、寿命も長くする。私は、アメリカでパイナップルからあらゆる果物・穀類まで酢を作って来た。

調味料の中で最も大切なもの。世界のビネガーの中でも、日本の米酢には思い入れが深いのです」

これには、脱帽というか、全く驚くほかなかった。

私は、神の戯曲に操られているのだろうか。最後の結末・結論がこれである。

世界各国を旅した食通でもあるビネガー博士に諸手を挙げて絶賛されるとは。

すぐにでも、近き戸塚醸造さんを訪問されたいとの事。1200年間、日本料理の源流を伝承する四條司家の醤油を自ら蔵元に入って作るほど、調味料には通も通、微細な優劣を判断できるハイレベルセンサーを有されている。

大麦黒酢も心の酢も、共に福山の甕で育成された必然の一致があり、麹の良さにも言及された。

そして何よりも、世界の水博士として、富士山麓の霊水の科学的アプローチから未来的エネルギー化利用まで掌握されていらしたのには、大いに舌を巻いた次第。

畏(おそ)るべし、富士霊水の為せる業。

この度の数々の訪問の行き届いた神様の御配慮に、ただただ畏れ入り、敬服と感謝の念以外ない。

十一、一つ最後に、後悔と箴言(しんげん)を

「チャンスは、今、この時、この場!」

その日は、絶好の晴天で、富士山は晴れ晴れ。

シャッターチャンスは何時でもあるはずだった。

所が、である。

撮影チャンスは、再びと来なかった。

チャンスは、その時。

後にはなかった。

人生も、またまた同じ。

「あなたに、今、チャンスの女神が舞い降りている!」

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。