【緑の海】大自然の息吹の偉大さは言葉にならない

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

まほろば主人「農村日記」#3

ある朝、ふと目を覚ます。

すると、緑の畑から、「おいで、おいで……」と呼ばれているような声を聴いた。

何と、そこは浄土極楽の宝珠 の池で、満開の蓮の華が常世の春とばかり咲き乱れている。

仁木のこの自然農園。

作物が「うれしいな、うれしいな!……」と言いながら、枝や葉を思いっきり伸びたいだけ伸ばし、広げたいだけ広げている。

何処までも何処までも伸び切る。

それは、もう嬉しくて、嬉しくて、植物たちが、歓喜の声々を挙げながら、生長してゆく。その現場を目の当たりに見て、私の今までの農業観が一変してしまった。

何ということだろう。何という光景だろう。

作物が喜々として育ってゆく在り様は、この世のものではなかった。

まさに『緑の海』なのだ。

どこまでも続く海が、この畑に出現した、とさえ思われた。そのうねりは、法の海。

いのちはみな一つという海、「イノチの海」なのだ。

もう、命の歓喜の合唱が、四方八方に木霊している。

これが、植物の本性というものだろう。

私は、何をしていたのだろう。何を思い違いしていたのだろう。

植物が咲きたいように咲かす、育ちたいように育てる。これは、何であろうか。素人の私には分からない。

しかし、明らかに今までとは違う世界が開かれた気がした。

○○農法、○○栽培という技術や考え方は、あくまでもこちら側、人間の立場から見た視点で、植物にとっては、何か全く別次元・別世界のことではないかと思った。

何かのタガを外す、何かの縛りを外すことが、人の務めではなかろうかと、フト思った。

農薬を撒こうが、慣行であろうが、有機や自然の農法でしようが、ことごとく全てのイノチが育ってゆくその大自然の命の営みの大きさ、深さ、見事さに感動している。

イノチ丸ごとお抱えの、大自然の息吹の偉大さは言葉にならない。

ああだ、こうだ、という以前に、人は謙虚にならねばならないと思った。

刻一刻一刻、イノチは紡がれ伸びてゆく、何処までも伸びてゆく。こんな感動がどの世界にあるだろうか。もうスゴイの一言しかない。

生きたくて生きたくて、伸びたくて伸びたくて、生まれたくて生まれたくて、そんな思いの萌芽を、植物すべてが持っていて、そして人もみんな持っていて、世界がすべて持っていて、この地球も宇宙もすべて、無限の彼方に生きようと伸びようとしているのだ。

それが、自然の好生の徳というもの。すべてが生きることの喜び、輝き、閃きがキラキラしていてこそ、この世であり、あの世であり、この世もあの世も区別できないほど素晴らしいのだ。

入植して数か月のわずかの間、あまり大きなことは言えないが、何て知らなかったのだろう、と正直思った。

人は、土から生まれ土に帰るというが、やはり誰もが生きている限り、土に生きるべきなのだ、と思った。

自然食品店を30年やって、自然に触れているようだが、全然分かっていなかった。

今も本当は分かっていないのだろう。しかし、何かが明らかに違うのだ。

自然と生きるということ、植物と共に生きるということは、何か素に戻れる、巣に戻れる自分がいるのだ。

幸せや希望や何もかもが、このしっかりした大地からしか、本物は生まれないような気がした。

ある朝、早く畑に行くと、キャベツ畑にモンシロチョウが、それは夥しい数で乱舞している。

毎年、小別沢の畑でもよく見る光景であったが、その数が並ではないのだ。

びっくりして、これはこの世の出来事か!と思うほど強烈であった。今の畑では、蝶々も飛ばなくなった、といわれて久しい。

むろん農薬のせいであろう。

しかし、蝶々とは、本来こういう本性であったのか、と思わせるほど、凄かった。

それは、あのかぼちゃ畑の「うれしくて、うれしくて」と同じ思いで、飛んでいたのだ。それはもう喜々として、そのイノチをイノチが飛んでいるのだ。

そのイノチのまま、飛ぶようにして飛んでいるのだ。何にも侵されることなく、誰にも怯えることなく、もう喜び一杯で舞っているのだ。

きっと、モンシロチョウは悔いのない一生を終えることだろう。

花無心

このとき初めてあの良寛さまの詩『花無心』が思い出された。

「花 無心にして 蝶を招き、 蝶 無心にして 花を訪ぬ。花 開くとき 蝶来たり、 蝶 来たるとき 花開く。

吾もまた 人を知らず。 人もまた 吾を知らず。知らずして 帝則に従う。」

…… 花は、蝶を招こうとして咲いているのではなく。蝶に、花を訪ねようという心があるのでもない。

花が咲くと、蝶が飛んできて、蝶が飛んでくる時に花が咲いている。自分も、他の人々のことは知らないが、他の人々も自分のことを知らない。

互いに知らないながら、天地の道理に従って生きている ……

その通りだと、思われた。

ただ、みな無心なのだ。それで、いいのだ。お陰で、キャベツの葉っぱは、ボロボロのレース状態。

でも、キャベツも嬉しそうだった。楽しそうだった。

お互い「キャッキャ」と、笑っているのだ。こんな光景があるものだろうか、と思われた。

大丈夫、たくさん青虫に食べられ、与えた後に、「よーし、ドッコイしょ」と、これから寒さに向かって葉を巻き始めるのだ。

これからが、自分の世界だとばかりに。昆虫も植物もお互い分け合って生きている。

本当に共存共生しているのだ。

それは、まるで極楽の天上のように、他に与えるだけで自分が清まっていく、キラキラと煌く世界だっだ。すばらしかった。

何十年も、妻がジャガイモの種を更新して毎年、植えている。豆とトマトのパイプの間に、チョコッと植えた。それは、機械撒きの試しで、試運転であった。

完全な失敗である。蛇行して恥ずかしい限りである。畝幅、条間の失敗か。培土が叶わず、茂るに任せるのみだった。

その代わり、成りは恐ろしいくらいになった。

元肥のたい肥が効いたのだろう。しかし、あの一ヵ月前の集中豪雨で葉と茎が倒れてしまった。無残であった。

しかし、致し方ない。枯れた根を掘り、幾分小さめの芋(キタアカリ)を掘ってふかして試食した。

その時、余りのきめ細やかさと味わいの深さに、突き抜けた感動に、驚いた自分がいた。

これが、芋の美味しさというものか。もう、自分ながら作物にこれほど、感動したことがあっただろうか、と思うほどだった。

あの植物たちの声、姿を見ると、この味もまた、植物たちのイノチの現れ、喜びそのものであったのかと、改めて思った。

味もイノチをそのまま映す。天恵のこの地の良さに感謝し、0‐1テストで対話することに感謝して、ただ大地と植物に奉仕する後半生の自分たち。

5月2日に、土地を収得して、初めは通いで畑への往復、機械類を入れても初めての運転、海のものとも山のものとも覚束ない状態で畑起こしを始めたのは、半ば過ぎだったか。

まだ、100日が経ったかどうか。4・5haの広大な地で、親子3人が耕作できるのは、今の処、半分にも満たない。

しかし、この8月初めから末までの丸一ヶ月で、半町歩の畑から総量2・5トンもの信じられない量の果菜類が出荷できた。

昨日は、観測史上にない大型台風が襲来するというので必死に収穫、10㎏の発泡に32箱も出荷。

しかし、祈りが届いたのか、台風は幸いに来なかった。今年の度重なる台風のほとんどが、一度もこの地に近寄らなかったのも不思議だ。

明け方、キリギリスやコウロギなどの虫たちの大合唱で目が覚めた。それは、地鳴りというか地響きするような唸りが、畑一杯空一杯から聞こえてくるのだ。

家の中に入って鳴くコウロギを家内が外に出したのは夜中2時過ぎだった。それからというものは、この昆虫たちが、「台風よ、来ないで!」とでも、泣き叫んだお陰なのかと思わせるほどだった。

そして、静かに去った台風に「ありがとう!! ありがとう!!」と感謝の声、喜びの声だったのかとも取れる大合唱だったのだ。

それは凄まじいばかりだった。そして、その声々はみんな違って、実に豊かで大きく美しかった。この世の音楽ではない天上のオーケストラで、我が一生の内で、一番感動した演奏会だった。

その時、「あぁ!ここは私たちの畑でない。みんなのもの、生けるイノチのみんなのものなんだ!!」と知ったのだ。

イノチがみんな協力して作っている畑なんだ、と確信した。

何故、こんなにも一杯一ぱい採れるのだろうか、なぜこうも美味しく豊かになるんだろうか、ということが理解できた。

それは、みんなと生きているという喜びだったからだ。これが唯一の答えだった。

毎日、イノチたちと向き合いながら、みなと共有共働できる日を夢見ながら、今日も収穫に世話に明け暮れる自分たちである。

しかし今、文章は合間を縫って、やっとのことで書いている。

半農半Xのつもりが甘い甘い、「晴耕雨読」どころか、「晴雨耕々」で一日とて休めない、全農でも追いつかない、きつい毎日を過ごしている。

でも、「堪えるなー」と思っていても、畑に出れば、作物たちに励まされてファイトが出てくる。

茨城大学農学部の中島紀一名誉教授にこのことを伝えたら、呆れられた。

「それは、20年遅いヨ。遅くても40代後半までに就農しなければ、無理ですよ!ハッハッハ!!!」

その無理を無理と知って、65歳と70歳からの二人の人生のやり直し。

これからどうなるか植物に任せ、イノチのままに、蝶のように、花のように、無心に生きることにしました。

本当に、作物や昆虫たちが一番知っているのでしょう。

小さい私たちの先生ですから………



續 倭詩

新刊書 『續・倭詩(やまとうた)』 のamazonに寄せられたコメントです。

AMAZONレビューより

【前回のコラム】

「水とは医学」―霊水に込められた哲学をひもとくー

札幌の自然食品店「まほろば」主人の「つれづれ農村日記」

宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。