死生(イノチ)の海

シェアする

札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

赤はこべ(タニソバ)が、婉然(えんぜん)として微笑んだ。(こんなことが、あるのだろうか?)

隣の白いミゾソバに、目を移すと、同じように笑っている。(自然はお話しするというけど、こんなにも語りかけてくるものなのかな?)

今、ニンジンを掘っている。

夏場、間引きも出来ず、除草も出来なかった所が残っていた。

鬱蒼(うっそう)としてツユクサがニンジン葉の上を覆っている。

それを、引っこ抜いては、ニンジンを掘るのだが、内心「かわいそうに、ごめんね、ごめんね」と、謝っている自分が居る。

小さい頃から、何とはなしに可憐で清楚で、青色がハッキリしているこのツユクサに心惹かれていた。だから、特に心が痛んでいる。

ニンジンの為だけに、こんなにも周りが、無残にも、根こそぎ抜かれていると、ちょっぴりオセンチになっている。

そんな思いで、この抜いたツユクサたちを後ろに見ると、何と言ったらいいのか分からないけど、決して辛そうでも苦しそうでもないのだ。

そんな人間的な喜怒哀楽の思いを遥かに超えている所で生きていた。

死しても、死んではいない様子なのだ。こんな小さな野の草花だけど、悠然(ゆうぜん)と生きている姿に、ビックリさせられてしまった。

その時、植物は生き死にを超えている世界に居る、ということが降りるように分かった気がした。

いわば、1億年にも満たない類人猿発生以前、32億年も前の光合成の生命誕生から見れば、遥かに遥かに大先輩に当たる植物の意識、その精神構造自体、全然違う世界、飛んでもなく超絶して神に近いのではなかろうか。否、神そのものなのだ。

もっと、悠久な時間を生き、もっと広大な空間に生きているではないか。

か弱そうで強(したた)か、儚(はかな)きようで壽(いのちなが)く、人間のとても叶う相手ではなかったのだ。

私たちが、植物を育てているように思っているが、実はその逆で、育てられている。

いや、人間を介して、もっと無限の時、無始の始めから終わりなき終りまで生きている。

この圧倒的な別世界に、人はただ棲まわせてもらっている。

その時から、見える風景が一変してしまった。

いつの頃からか、自分の本棚に、三枚のポートレートが飾ってある。

一つはチベットのユトク。もう一つはイスラムのアヴィセンナ。最後にギリシアのティアナのアポロニウス。

 

何故、敢(あ)えて飾っているか、自分でもよく分からない。

だが、その画像を初めてみた時、何か妙に惹き付けられるものを感じた。

人にあまり知られていない、自分でもよく分かっていないこの三人の人物とは、昔一緒に居たような妙な懐かしい気分があってのことだ。

皆、何かチョット一癖(ひとくせ)二癖もある怪しい医学と秘術と哲学があって、気持ちが似ているなー、と思ってのことだった。

その中でも、随分昔に知ったのが、ティアナのアポロニウスで、……彼の箴言(しんげん)が、今なお新しい。

     ―ティアナのアポロニウス―

だれにも 死というものはない。  

それは、ただ、見かけだけ。

だれにも 誕生というものすらない。  

それは、ただ、そう見えるだけ。

在ることから、成ることへの変化。  

それが、誕生に見え、

成ることから、在ることへの変化。  

それが、死に見える。

だが、ほんとうのところ、   

だれも生まれず、   

だれも決して死にはしないのだ。

この詩と言うか、諭しと言うか、イエスと同時代に生きた彼の2000年前の言葉が、今も活き活きと語りかけて来る。

死もない、生もない、それは見かけ、見せかけのことだと言い切っていることに、ふと、ニンジン畑で体験したことを、思い出したのだ。

ごく最近、ある本を、農作業の合間合間や、寝る前に読んでいた。800頁にもわたる大著だ。

珍しくも、頁を惜しみながら読めた本だった。それは立花隆がインタビューしてまとめた作曲家・武満徹への聞き取り本で、膨大な内容だった。

何故、ここでいま取り上げるかは、実は、彼は私の進路を16歳で決定づけた人だからだ。

進学しないことも、独りで求めることも、彼から学んで決意したことだった。

ただのファンでは収まらない、のっぴきならない関係が武満と自分の中にあり続けたのだった。

青春は彼と共にあったと言っても過言ではなかった。だが、訣別するのも、一大決心が要(い)った。

そんなこんなことを書くと取り留めがなく、延々と綴らねばならなくなるので、止める。それは、いずれいつの日にか。

ただ、今回の『武満徹・音楽創造への旅』で、こんなことを言っていた。それは、やはり死生のことだ。

「人間の生は束の間だが、死は無限だ。しかも、人間の意識の薄いヴェールを隔てて、死はつねに生の直中(ただなか)に生きつづけている。

『死は虚無なのではなく、すべては生きてあるもの、すべて存在しているものの実際の一致』なのだ。すると、こうして眺めている風景も、すべては死の風景と言えなくはない。……

『生とか死はとるに足らない様態であって、たとえば植物であるとか、鉱物であるとかいうのと同じなのだ』とル・クレジオは書いているが、それだから、この生から死への移行を司る大きな意識、私たち人間の個々に分散して在る無限の意識の実在を信じることができる。死は決して一つの終末ではない。……」

一つだけ、武満の思想の核心だけを述べたい。

それは、「音の河」という。

簡明に言うと、この取り巻く世界は無数の音の河が流れていて、その一つを切り取ることを自分はしているに過ぎない、と語る。

初めと終わりのある時空を完結させるという西洋的思考論理の作曲ではなく、宇宙に流れる音の河の一部分を掬(すく)い上げる行為だという。

だが、そこには、いつも全体が現れている。一掬いの水の中に、世界の海が映っているというのだ。初めもなく、終りもない、音と曲。

若き日の自分が、そんなにも命がけで追い求めたものが何だったか。それはこの音の河に見立てた「イノチの河」だったのだろう。

この一人の自分は、一掬(いっきく)の水より、まだ小さな一滴の雨だれにも満たない。

しかし、イノチの河に流れ込めば、その一滴の水は限りなき海そのものに自分はなってしまう。

この短い人生も自分の命も、儚いように見えて、実は永遠の無窮のイノチのさざ波に漂っているだけなのだ。

名もなき雑草の中にも滔々(とうとう)として、このイノチの大河が注ぎ込んで、「おいで、おいで!!」と、私を誘ってくれている。

若き日に邂逅した隷書の大家、胡蘭成大人。

「字の始筆終筆は、そこに始まるに非ず、そこで終わるに非ず。遥か虚空より来たりて筆を起こし、遥か天外の天に向かいて筆を伸ばすべし。以て字の神(しん)と成す」と、私に手を把(と)らずに、言を以て諭(さと)された。

この消息も、同じなのだろう。

人生万事、一掬の水、一片(ひとひら)の野草なのだ。

何処(いづこ)より来たりて、何処へと去るか。イヤイヤ、何処(どこ)にも行かず、何処にも帰らず、今、ここ、このままで、私はそのままでいいのだ。

今朝も、イノチの大海にプカプカと泡のように浮かびながら、漂いながら、畑に向かう。

【こちらもオススメ】

こだわり生醤油「新醤(あらびしお)」は万能サプリメントだった!! 【食は薬、生は氣】

【異常気象と地震】人間の果てしなき欲望が自然の猛威と反撃の引き金となる

植物は思考する【MOTHER TREE 母なる大樹】

宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。