空を飛ぶ鳥のように風のように野を駆ける

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

一、北帰行

名も知れず咲きほこる
野の花に送られて
………
振り返ることもなく
荒れ果てた この道を
空を飛ぶ鳥のように
野を駈ける風のように
……… 
その胸に 夢を抱いて
歩き出せ いますぐに
若者よ 力尽きるまで

(松山千春「空を飛ぶ鳥のように野を駈ける風のように」から)

深夜、この曲がラジオから流れた。

突如、言い知れぬ懐かしさに襲われた20代後半のある日。

胸にぽっかりと穴が開き、そこから自分が飛翔するように、

空を飛び、野を駈ける風になり、鳥になっていた。

それは、紛(まぎ)れもない北海道の高く青い大空で、それは、どこまでも続く北の大草原だった。

長く内地に居住して、初めて聞く無名の一青年の唄に、北國の故郷を、まざまざと観たのだ。

何が有ろうと、やはり私は、そこで生まれ、そこで育ち、そこで死んでゆく。

そんな、真正直な自分が、心の底に隠れていたことを、改めて知った。

それから程なくして、私は再びと北の大地に屹立(た)っていた。

その眩(まぶ)しい光も、頬(ほほ)を撫(な)ぜる風も、嘘偽(うそいつわり)りのない「僕」だった。

二、千の風になって

私のお墓の前で
泣かないでください
そこには私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
・・・・・・・・・・

(「Do not stand at my grave and weep」(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)は、近親者の死、追悼、喪の機会に読み継がれて来た有名な詩。

原題はなく、便宜上最初の行を借りて «Do not stand at my grave andweep» として知られる。日本では、第3行目 «I am athousand winds that blow» から借りて名づけられた「千の風になって」として、新井満による日本語訳詩がある)


 
20年ほど前、世に一大ブームを放った「千の風になって」その風に、40年前の「野を駈ける風」と同じ風を感じた。

死者は、墓には閉じ込められず、お寺でも眠っては居ない。

私は自由の翼をもって、行きたいところを行ける風となっているんです。

光ともなっています。雨となっています。

あの雲の中に、あの川のせせらぎに、あの山の頂きにもいますよ。

これによって、どれだけの人々が救われたであろう。墓守(はかもり)が出来ない後ろめたさも、田舎に帰れないもどかしさも取り除かれて。

暗い宗教観の縛りや因習の囚(とらわ)れが取っ払(ぱら)われて、新しい死後の世界が開かれた。

三、3・11 以後

あの悪夢の2011・3・11。

東日本海岸を襲った大津波は、一挙に1万5900 人もの命を奪った。

その遺体が見つからないまま、海の藻屑(もくず)になってしまった夫婦、子供、親兄弟の弔(とむら)い。

遺骨もなく、ただ冥福を祈る他なかった。死体を火で焼く、土に埋める儀式も挙げず、海の彼方、空の彼方に手を合わせるばかりだった。

祖先の墓には、入れようもないその霊魂は、何処に鎮まり、何時帰天するのだろう、したのだろう。そこには、ただ虚空が横たうばかりだった。

その日から、国民の底から、静かなる意識改革が起こり始めた。

死者の魂は、彷徨(さまよ)うことなく、惑うことなく、確かに、この日本の懐(ふところ)に帰った、と。

日本の風土の中に取り込まれて、その風景となり、季節となり、暦(こよみ)と化していった。

霊魂は、何処ということなく、確かに大好きな日本の一部となって生きている。

ご先祖様が、何千何万年来、累々(るいるい)と屍(しかばね)を積み上げて来た白骨も墳墓も、何時しか土と消え、土と混ざり、微生物の餌となり、糞尿となり、それが植物の栄養となって、花となり実となって再生された。

この山路のスミレは、祖母の生き写しかもしれない。

この海藻の襞(ひだ)の一つひとつは、曾祖父の躯(むくろ)の化学変化、化身かもしれない。

亡き父母(ちちはは)の魂は、この孫かもしれない。あの子かもしれない。

祖先が子孫となり、子孫が祖先となる。

廻る輪の止まらぬように、すべてのイノチ、人魂(ひとだま)は混然一体となり、日本人になって帰るのだ。

店では、スタッフやお客様に、母方の会津藩士の末裔の方が、続々引き寄せられる現象や、60 年ぶりの幼馴染(おさななじみ)に、その辿った半生の軌跡の地が、同じ周辺であったことに驚かされた。

中国にも印度にも、前世の記憶を持った「生まれ変わりの村」があるという。

同じ作物や雑草が、種を遺して、次の年にまた、そこに稔(みの)るように、人も同じような地場と磁力に吸い付かれるように引き継がれて、また生れ落ち、生まれ変わるのではなかろうか。

それが、風土であり、歴史であり、祖国なのではないか。

同じ土壌に、同じ魂が、幾千年幾万年畳み込むようにして、生死を繰り返すのではなかろうか。

様々な魂は次々に転生を重ねて、日本人の血は色濃く、今の列島に継がれて来たのだ。

流れ流れ、廻(めぐ)り廻って、過去が今となり、未来が今になり、あなたが私になり、私があなたになって行く。人は人という名の自分。

優しさも、慎み深さも、哀しみも伴に‥‥。

知の巨人・立花隆氏は、「死んだ後については、葬式にも墓にもまったく関心がありません。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか」(『知の旅は終わらない』立花隆)と綴り、葬儀は樹木葬で営まれた。

ヨットマンの作家・石原慎太郎氏は、「骨の一部は愛した湘南の海に戻してくれ」と遺言し、葉山町・名島沖で散骨式が執り行われた。

放送作家・作詞家の永六輔さんは、「『大往生』というのは、死ぬことではない。往生は往(い)って生きることである」(『大往生』永六輔)と、惜しまれて逝った。
 
人はみな、山に帰り、海に帰り、空に帰る。

宗旨宗派いずれなりとも、人はみな自然に帰る。

これは、紛(まぎ)れもない事実であり、真理なのだ。

これは縄文時代であろうが、1万年後の未来であろうが、変わらぬ日本の原風景なのだ。

四、「老人大国、日本」と「多死社会」への突入

我が国の総人口(2021 年9月15日現在推計)は、前年に比べ51万人減少したという。

ちなみに北海道の人口激減は、2022 年で521 万人、2040年では428 万人と92万人が減り、都市札幌に集中し、限界集落は生まれ、地方は消滅しようとしている。

一方国内では、65歳以上の高齢者人口は3640 万人。前年(3618 万人)に比べ22万人増加して過去最多。

1950 年(4・9%)以降一貫して上昇が続き、総人口に占める割合は29・1%、過去最高となった。

およそ、三人に一人が高齢者の「老人大國・日本」となってしまった。

さらに、第2次ベビーブーム期(1971 年~1974 年)世代が65歳以上となる2040 年には、何と35・3%になると見込まれる。 (図1)

そして、2021 年の高齢者の総人口に占める割合は、日本(29・1%)は世界で最も高かった。(図2)

いわば、世界全体が、今、歴史的衰退期を迎えようとしているのだ。

少子化が、人口減少の原因だと誰もが思う。

だが、違った。今後、死亡者増が一番の要因となる。日本のこれからは、何と「多死社会」へと突入するというのだ。

その引き金というか、最たる予兆が、コロナ・ワクチン禍に於ける「超過死亡率」だった。

2021 年の国内の死亡数は前年より6万7745 人(4・9%) 増え、増加数は東日本大震災の11年(約5万5千人)を上回って戦後最大となった。

21年の死亡数は145 万2289 人で、初めて140 万人を突破した。(厚生労働省の人口動態統計(速報値))2023 年から

約50年連続で、年間150 万人、毎日4千人以上が死んでいく計算。そして、2071年には死亡率は19・0のピークに達する。

これは明治期の日清・日露戦争時期とほぼ一致。戦争せずして戦時中と同等となる。しかも、2060 年以降は全死亡者の9割が75歳以上で占められることに。

しかし、太平洋戦争後1951 年から2011 年までの私達の時代は、死亡率10・0未満が60年間も続いたこと自体が当たり前ではなく、むしろ極めて稀有だったことだ。

戦後日本の人口増加は、実はベビーブームだけでなく、乳児死亡率が下がった「少死」によるものだった。

五、葬式の小型化と合葬化

さて、日本のこれからは、かくも人口減少が、ますます広がり、少子高齢化に加え多死社会へと変貌を遂げる。

これから突き進むこの不安社会をどう迎えたらいいのだろう。

少子高齢化、核家族化、地方過疎化で、田舎の墓場は荒れ、墓守りが居なくなった。

非婚、晩婚化による後継ぎが途絶え、孤独死が都会に、燎原(りょうげん)の火のように拡がった。

東京では9割が病院の死に床で、畳の上では死ねなくなってしまった。

詰まる所、真っ当な死に場所がなくなったのだ。

さらに葬儀も出せない。墓参りも出来ない。

永代供養のために、高い墓地代、墓石代は払えない。日々、カツカツの生活費では、死ぬに死ねないのだ。

この貧しき国民には、野垂れ死にしか道はなくなったのか。

都会は、人と土を切り離された「無縁佛(むえんぼとけ)」社会となってしまった。

一方、ミニマムな家族葬が、この5年で4・5倍も増えたという。コロナ禍で、さらに小型化傾向が進んだのだ。

こぢんまりとした親族血縁だけで弔うことが、増えて来た。

それはある意味、知人友人を煩(わずら)わせず、親子親族が懇(ねんごろ)に、野辺の送りが出来ていいのかもしれない。

慎ましやかに、ひっそりと、心込めて送り出すことが出来れば、どんなにか故人も嬉しいだろうか。

みなが心の納棺師(のうかんし)「おくりびと」になって、最後の別れこそ、何よりである。

だが、この死出の旅路が、真っ当に送れなくなった原因。

それは、都市集中で、日本の村々に人が棲まなくなったからだ。

「土に帰る」べき土が、喪失(なく)なったからだ。

みな帰るべき家郷(ふるさと)を失ってしまった。

昔は、我が庭に、我が敷地内に埋葬して、一家で朝夕弔(とむら)っていた。

それで、亡き魂も寂しくないだろう。死してなお、家族と一緒なのだ。

そうして、絆は深まった。

飼い猫も犬も、最期は、その家で隠れるように眠るという。

本心は、誰もが、我が家で生まれ、我が家で育ち、我が家で最期を迎えたいのだ。

「小國寡民」とは、実はそういう素朴で単純な人生であり、ひっそりした村社会のこと。

その土に帰ること、土を得ること、これから祖先子孫の根城(ねじろ)となる土地を探そう。

祖先参り、宮参りのできる、子孫がやがて戻るべき里山を作ろう。鎮守の森を作ろう。

もし何かを信じるとするならば、縄文人のような地霊・里山信仰だろうか。

里山に先祖がいらして、神さま仏さまがいらして、我々を守ってくださる。

今、モニュメントやガーデニング型の合葬墓が、全国に900 近くも拡がったという。

しかし、経営営利のほとんどが宗教法人で、あとはわずかな自治体、公益法人。

埋骨は、墓地以外は法律的に禁止であることを、どうクリアして行けるだろうか。

各々、知恵を絞って、理想未来の埋葬法を創造工夫したい。

「ね(願)かはくは花の下にて春し(死)なむ そのきさらき(如月)のもちつき(望月)のころ(頃)」(山家集 西行)

(「願うことには、桜の花が咲いているもとで春に死にたいものだ。それも、(釈迦が入滅したとされている)陰暦の二月十五日の満月の頃に」)

今、「花葬」や「桜木葬」が流行している。

僅かの金額で、花の下(もと)、桜の本(もと)で、埋葬してくれるという、何と風流で、風雅なことか。

好みの花々を遺骨の上に植えてもらって、その花と共に四季を彩ろう。

その周りに多様な生き物が活きられるよう、農薬や殺虫剤、除草剤を避けたいものだ。

沼や池や小川や泉や田畑が汚されないように、清浄な敷地にしたい。

それが、「清浄国土」運動にも連なる。

死は忌み嫌い、遠避(とおざ)けるものでなく、より近しいものへと招くものだった。

陰湿な墓場のイメージから、明るい誰もが集い憩える庭園空間(ガーデンスペース)へ。

まずは、何よりも都会を出でて、田舎に帰ろう。森に帰ろう。

六、樹木葬

まほろばの最初のお客さま。橋本雅江さん。

私が、冬道、雪の中、自転車で豆腐を配って歩いていたころから、かれこれ40年。

家内と同い年である。厚別店開店の折、経営危機にさらされ、家内と共に踏ん張って立て直してもらった経緯(いきさつ)がある。

こんなにも人生を肯定的に生きられるものか、と驚嘆するほど、爽やかで明るい人だ。ヒマラヤのヨガ聖者を毎年訪れていたヨギ求道者でもある。

学生たちにスキーツアーの修学旅行を斡旋するスポーツマンのご主人孝夫さんと、スキーレンタル会社を、本店の近くで経営されておられた。

ご主人は、根っからスポーツと若者が大好きな人懐っこくて、真一文字(まいちもんじ)の正直な方だった。

ところが、病を得て、急逝されたのだ。丁度、20年を経(ふ)る。

彼女の悲しみは尋常ではなかった。だが、その死を真正面から受け止め、ヨガ指導者としても、商売継承も、立派にしっかりと果たし、昨年会社を人に譲って、これからは「なつさと」メンバーとして意欲満々、活躍が期待されること無限大なのだ。

その彼女から、亡きご主人を、何と札幌のご先祖の墓ではなく、岩手県一関(いちのせき)の知勝院というお寺の「樹木葬」なる埋葬法で、蕭(しめ)やかに鎮魂しました、というお話を聞かされた。

普通なら、地元の最も近い所で、手向(たむ)けたいと願うであろう。

しかし、彼女は飛行機で乗り継ぎする不便なそこを選ばれて、「吊(つ)り花(ばな)」の木を植えられた。

そこまでする理由(わけ)は何か。

自然を愛したご主人の安らぎの旅路の果てを自然埋葬で、魂を帰したい、歓んでもらいたい、と願う一途な良妻の思いに、心底感激してしまった。

東北出身者が多い道産子(どさんこ)。

宮沢賢治の故郷、岩手の花巻も近い。イーハトーブ(IHATOV 賢治による造語、彼の心象世界中にある理想郷を指す言葉)の文学の杜もりやポラーノ広場もある。

さらに平泉には、藤原三代の中尊寺、毛越寺(もうつうじ) があり、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で言わしめた「黄金の国・ジパング」、輝ける浄土建国の理想郷が連なった聖なる弥盛地(イヤシロチ)であった。

もし、これが北海道に、ここ仁木に在ったなら、どんなにか幸せなことだろう。みんなはどんなにか嬉しいだろう。

行く行くは、彼女もそこに入り、仲睦まじく連理の枝、比翼の鳥となれば、永遠(とわ)の契りを結べるだろう。

七、この世があの世に

みんなが愛すべき森に、林に、里山に在ったならば、山全体を拝むことは、死者の霊に会えること、山全体を育てることは、死者の存在を忘れないこと。

「なつさと」構想の全体は、いわばみんなの終着点は、そこに帰結するように思われたのだ。

「揺り籠から墓場まで」。

最終の安らぎの地点が見えることで、安心できる。希望が持てる。

今がすべて肯定されよう。

誰もが、そんな心境を抱けるだろう。

宗教色を排した思想信条を問わない、とにかく自然に抱かれたい、自然に帰りたい、自然に生きたい人々の格好の終焉の地なのだ。

終活とは、ここを準備すること。ここに辿ること。ここで働くこと。

間伐をし、下草刈りをし、落ち葉を搔き集める。

墓作りは、森作り。森作りは、山作り。山作りは、心作りなのだ。

そんな浄土・天国をこの世に移す。再現する。

その再建する営みが、今様(いまよう) 極楽「なつさと」なのだ。

「身土不二」とは、この身のままで、浄土にいるということ。

「阿弥陀如来」は、三千億劫の奥堂に在(まし)まさず、今 この場 この時に、燦然と輝き出でます。

あの死後の世界を、生前の世界に持ってくる。

生も死もない。

一体なのだ。

天国は、あの世ではない。この世にあるのだ。

躓(つまず)けば、この世は地獄。飛び越せば、この世は極楽。

心次第、行い次第で、どうにでもなる。

さぁ、どちらを選ぶか。

そんな美しくも、清らかなる、光の「小國を、寡(すくな)い民(あなた)」と、ここに築きましょう。

名も知れず咲きほこる
野の花に送られて

空を飛ぶ鳥のように
野を駈ける風のように

今、あなたは
花になり
鳥になり
風になった

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。