活言【活きた言(ことば) 活かす言(ことば)】

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

2021年1月20日。米国大統領就任式の日。

野幌の北翔大学で、学生向けの特別講座が、午後4時半から開かれる。

生憎(あいにく)、このコロナ禍で、遠隔授業となり、学生参加なしの録画撮りとの事。

このワークも今年で何度目だろう、6、7年続いているかもしれない。

毎年テーマに沿って、PowerPoint(パワーポイント)に動画、楽曲をフンダンに取り入れ、香りや食べ物をも添えて、五感をフルに呼び覚ます方式を試みて来た。

同じ時間内で、無限に広がる情報群から、理解の深さを何十倍にも掘り起こす工夫でもあった。

だが今回は真逆。急変する時世に対応し、その日になって正式のタイトルを決めることにした。

それが「コロナと生きる」。

そして、PowerPointの用意もなく、語りだけで成り行きに任せようと臨んだ。

一、突然の参加者

担当のライフデザイン科・湯澤直樹先生の教室に、直行。

すると、一人の男性が待ち構えていた。

一般公開のこともあって外部者の聴講が許されていたのだ。

「宮下さん」と呼ばれた、そのガッシリした体躯と彫りの深い顔相から、一瞬にして、「飯田さん」と呼び合ったのだ。

実に、55年ぶりの再会であった。

それは、言ってみれば初対面のようなものだった。何せ、相手は当時小学生であったかなかったかの幼児だから。

数か月前、厚別店のお客様からという言伝(ことづて)で、医師の「飯田潤一」さんという方から名刺を頂き、その方が、何と私の恵庭中学校3年生の担任、飯田貞友(さだとも)先生のご長男であった事を知った。

よくぞ、覚えて居て下さったものだ。どうして、まほろばに辿り着いたかは、聞かず仕舞いであったが‥‥‥。

二、電撃の謎解き

対面のその一瞬、何故か長年の謎が解けたのだった。

「‥‥‥そうだったのか?」

それは、飯田先生の存在こそ、私の人生のスタートだったことを、電光石火、落雷のような閃きで、悟ったからだ。

今まで闇に葬られた青春の自分史の巻物が開かれた始まりだった。

先生からの最後の伝言、

「自由に生きれ!!」

このひと言で、私は友とは、180度違う人生を歩むことになった。たった、そのひと言で。

三、父との確執

こんなにも、影響力を持ってしまったことに、先生はどう思われたかも知れないが、兎も角、私は、そのひと言から舵が大幅に周りと逸れて行ってしまった。

父は、激怒して、先生の家に駆け込んで談判しに行ったくらいだったから、相当な大騒動でもあった。

それは、私が大学に行かない、と宣言したからだ。

それを父は、飯田先生の所に行って「こんな風になったのは、あなたのせいだ!」と大層な剣幕で怒った。

そのトバッチリというか濡れ衣に、今更ながら大変申し訳なく思うのだが。

それを、飯田先生は、どう処したか知る由もなかったが、かなり困惑されたに違いない。

だが、私には、先生は何事もなかったかのように一言(いちげん)も告げることはなかった。

しかし、私は、それを元の鞘(さや)に収めることもなく、遂に受験せず、奈良に直行したのだった。

先生の御配慮だったのだろうか、奈良に向かう駅に、幼馴染みの友二人が別れに来てくれた。

東大紛争、学生運動のピークで、日本中の大学が大荒れに荒れたその年であった。

四、学歴偏重に棹さして

その真相の何故かは、高校受験後、

「もうこんな勉強をしないで、自由に自分の道を求めなさい」と、飯田先生から言われた記憶が、心の片隅から蘇って来たからだ。

それに気付いたのは、この1月、潤一さんとの再会、50年後だったとは、時の仕掛けに戸惑った。

「兄弟5人居て、お前だけが何故大学に行かぬ」

進学校に入ったのに、それを反故にすることは、父にしてみれば想定外の事だった。

父を悲しませたことは、心から詫びるものの、当時どうしようもなかった。

父は、早稲田入学が決まったにも拘(かか)わらず、姉の突然の夭折で母親からそれを取り止めさせられてしまった悔しさに、3日3晩泣き明かしたという。

一生涯無念であったはずだ。それ故か、猛烈な教育パパとなった。

亡き母も又知的な人だった。

姉が今も塾を経営しているのは、小学校の担任とタッグを組んでのスパルタ教育は、子供の眼にも凄まじいもので超熱心だったからだ。

もう60年も前の話だ。既に、受験地獄は始まっていた。

私の勉強は、二人の親の期待に応えられるべく、格好は勉強しているようで、本当は好きではなかった。

飽きっぽいが、色々なことに興味があって、本当は頭がいい訳でも、出来る訳でもなかった。

そういう振りをしていたまでの事だった。いわば、親のために勉強していたのだ。

そんな抑鬱された私を、飯田先生は見抜いていらしたのだろう。

先生のひと言が、籠の中の鳥、殻に閉じこもった私を解き放してくれたのだ。

やりたいことをやる。やりたくないことはやらない。

現代社会では、案外勇気のいることだ。今でも、学歴社会は変わらない。

そこを果敢に生き抜くには、相当の覚悟が要るが、ある意味、「捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」である。

ちなみに、この格言は、良く父が言っていた切り札、捨て台詞(セリフ)でもあった。皮肉である。

この何気ないひと言が、人の人生を変えるほどの決定力があることに、今更ながら驚くのだ。

そして、この直言がなかったなら、月並みな一生を歩んでいたはずだ。

あえて、求道の青春を歩み、まほろばを開き、この歳で農業はやっていなかっただろうに。

五、中学三年生の思い出

先生の御自宅が、我が生家と漁川を挟んですぐ近くにあったので、毎週入り浸(びた)りだった。

奥さまは、夜遅くまで、さぞかしご迷惑だっただろうに、よくも受け入れて下さった。

敬虔なるクリスチャンで、二人して私の話をよく聞いて下さった。

レコードを聴かせてもらって指揮したり、ピアノの即興を録音して聞いてもらったり、友と一緒になって合唱したり、兎に角時を忘れて、音楽に夢中になっていた。

先生を慕って僅か一年間であったが、人生の多感な思春期の只中(ただなか)だった。

進学後も、何かにつけてお伺いしていたのだろう。

潤一さんが、子供心にも「悲愴な顔で話をされていたので、大丈夫だろうかと心配した」と述懐されたほど、当時深き悩みを打ち明けて居たに違いない。

先生は数学担当で、しかも音楽が大好きであった。

天界の数理を言語音響化したものが音楽だと言われているが、確かにバッハの細密な音の連続性には、天体の数理の神秘が歌うように紡がれていて、数学と音楽は申し子・兄弟である。

そんな先生は、眼が澄んでいて佛顔(ほとけがお)で、大らかで純で嘘がなく、心から信頼していた。

音楽のテストの時は、「どれどれ」と言って、その問題用紙に答えをスラスラと書いて行く。

耳が確かで、絶対音感を持っていらしたかもしれない。

音をとったり、譜面を起こしたり、オルガンを弾いたり、その才覚に不思議さを禁じ得なかった。

その謎を、遂には聞きそびれたが。数学が担当だったから、私も数学を熱心に勉強していたかもしれないが、それは今となっては定かではない。

その後、養護学校に転職されたと聞いて、その心根の優しさにはピッタリの職場と思っていた。

しかし、大のお酒好きが祟(たた)ってか、2度のクモ膜下出血、56歳の若さでこの世を旅立たれた。

六、音楽漬けの3年間から

その伏線があって、高校に入学してから、学業そっちのけで音楽に埋没してしまった。

高校1年の時、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに逢いに行って会話したり、世紀の歌手エリザベート・シュヴァルツコップやハンス・ホッターに会ったりと、若気の至り、怖いもの知らずだった。

その秋だったか、遠山一行(かずゆき)さんのラジオ番組「現代の音楽」で、前衛ピアノ曲「ピアノ・ディスタンス」という一音が鳴った時、「あっ!これだ」と自分の求めた音に出会った閃きを感じた。

その人は、無名の武満徹という新進気鋭の作曲家であった。その後、世界のTAKEMITSUになるとは露も知らずに。
https://www.youtube.com/watch?v=7Epb7PUJhPQ&vl=en-US

それからというもの、最先端の前衛音楽に嵌(はま)り、自身もそこを志した。

メシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ベリオ、ノーノ、リゲティ、ペンデレッキー、クセナキス、ジョン・ケージなどなど、片っ端から世界の最先端の楽譜や音源を取寄せ作曲法を学んだ。

現代美術にも顔を突っ込んだ。

美術志向の友とは、二人で中退して、東京で暮らそうと図りごとも練った。「パンの耳で食い繋ごう」と。その友は5年前に鬼籍に入った。

当時、札幌では、誰一人として現代音楽を語り合える人も先生も居なかった。

相当ませていて生意気だった。今でいえば、ロックやヒップホップに熱狂する若者の気持と同じだったのだろう。

STVのスタジオを借り切って、徹夜で収録した自作の音源を文化祭で友と発表したコラボ音楽劇は、記念碑でもあった。

学校からは大目玉を食らったことにもめげず。

七、武満と岡、日本のめざめ

ところが、高校2年生になった1967年11月の秋、武満の「ノヴェンバー・ステップス」と題する琵琶・尺八とオーケストラの合奏曲が、ニューヨーク・フイルで世界初演され、大好評を収めるという大事件に遭遇した年だった。

彼の音楽観や東洋的、日本的独特な資質の何たるかに惹かれていったのは言うまでもない。
https://www.youtube.com/watch?v=T7xVI-0bf_A

丁度その頃、『人間の建設』という話題の対談集を読んで、前衛から急速に古典に向かった。その対談者こそ、岡潔と小林秀雄だった。

ギリシア文明を起源とする数学の岡博士が、対極にある日本的情緒を語り、日本民族を云々(うんぬん)する辺りにUターンし、惹かれて行く別の自分が居た。

岡も武満も二人とも、立ち位置が西洋で在りながら、心が東洋、殊に日本に根差し、何故日本を言うのだろうか。

片やキラキラした綺羅星の如く、片やハラハラと枯れて行く枯山水の如く。

若き眼には、そのどちらにも魅惑的で強烈な吸引力があった。

当時から若年寄、ご隠居様と呼ばれていた。そこから、当所(あてど)なき奥の細道が始まった。

わずか3年間の高校生活の中で、私は、人生最高の師に出逢い、人生最大のテーマを獲得したことになったのだ。

遂に人生七十年、これまでこれを超える師に巡り逢うことはなかった。

そして、前衛から古典まで、一気に往復した振り幅こそ、世界と人生を俯瞰できる芽を、この時植え付けられたのではなかろうか。

最も新しいことは、最も古いという実践哲学を、身を持ってスタートさせた卒業の年であった。

後に学ぶ最古楽器の古琴も、後々に創る最先端のエリクサーも、自分にとっては、全く同じ位置、同じ目線の中に在ったに過ぎない。

八、まほろばなる奈良へ

そして、その日本「大和は國のまほろば(・・・・)‥‥‥」なる奈良に惹かれて、どうしても、その地から人生を始めなくては、と思い立った。

その古都には、岡先生が隠栖(いんせい)されていた。そして武満が、無からの出発だったことも手伝って。

2年生の修学旅行で薬師寺参拝の時、細雨(ささめ)降り頻(しき)る中に立ち、「あぁ、茲(ここ)に居たことがある」とのデジャヴュ(既視感)を一つの頼りとして、頼りなき人生の独り歩きが始まった。

しかし、何の取柄(とりえ)もなき細き脚ながらも、生きるテーマを抱いて歩き始めた健気さだけは、踏みしめていた。

正に、その18歳の旅立ちが、既に「まほろば」そのものであった。

そして、15年後、実際の自然食品店まほろばを開業したのだ。

観念のまほろばが、物質のまほろばとは、一にして別物ではない!ことに気付くには、まだまだ暗夜行路を、紆余曲折を重ねなければならなかった。

その話をするには、もっと勇気と精力と時がいる。続きは、何時か。

九、そして、その時

その後55年のスタートが、15の春だった。

「自由に生きれ!!」

との飯田先生の御言葉がなければ、今の自分も、今のまほろばも、今の農園もなかった。

言霊(ことだま)の力と冴えが、自分を奮い立たせ、今日までを引っ張って来てくれた。

そして、父の後押しが加わった。軈(やが)て、「お前の勇気があれば、自分(父)の人生も変えられただろうに……」と、最期の最後まで理解と支援の手を惜しまなかった親の愛と恩は、忘れることが出来ない。

何事にもとらわれない目線と眼力と手腕。

それこそが、自由人として生きる証しである。

まほろばの後先(あとさき)も、そのようであり、そのようになるだろう。

それは放逸(ほういつ)なようで、宇宙則を自由に行き来しながら外れず、闊達(かったつ)に自在に飛び交う野鳥や鯨のような存在でいたい。

確かに、人を揺り動かす言葉がある。

飯田先生の贈る言葉、餞(はなむけ)の言葉が、今日を活かして下さったこと。

万感の思いで振り返り、感謝し、再びと前向きに、生きんことを。

そして、若者をして、人生を激変させるべきひと言を発せられる人となりたいものだ。

その「活言(かつげん)」には、死生を駆け抜けた体験が要る。

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。