札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム
一、ある農婦の嘆き
「もう、畑なんか見たくない!!」と、言い放って、2年間家に閉じ籠って、畑に出ることはなかった。
50年もの間、農作業に明け暮れた日々に、綻んだものは何だったのか。
「どうして、農家になんかなったの?」と、私に聞かれた。
「もう、農家なんかやめなさい!」と、足下に言われた。
それは、もう体の髄から絞り出すようなハッキリした声だった。
体には、肘と膝に人工関節が4つ入っているという。
お父さんに、「焼き場では、恥ずかしいから、先に拾って人に見せないで!」と言ってあるという。
「もう、痛くて、痛くて! 辛くて、辛くて!」
「歩くたびに、骨と骨がぶつかって、関節がやんで飛び上がるように痛い、でも耐えねば!手を伸ばす、伸ばしても戻すのに体中に痛みが走る、もうダメ、耐えられない。もう全身がリウマチになってしまったみたい」
とうとうこの2年間、初めて農作業を離れたのだ。
知らなかった。無知だった。栗山の寺島正晴さんの奥さん三江子さんが、こんなにも病状が進んでいたとは。この痛みの叫びが、私への直言だった。
それは、農業は大変。体も大変。食べて行くのも大変。という、言ってみれば、優しい諭しだったのだ。
二、農業なんか……
農作業。苛酷な野良仕事。
「夫婦二人で、働き詰めに働いた。二人しかいなかった。だから、最後の最後まで働くしかなかった。こういうものだと自分に言い聞かせて働くしかなかった、この50年。
メロンの芯摘み。トマト・西瓜の枝払い、農家の女の人はみな泣いている。
あるはあるは、野菜作りは途轍もなく、途方もなく仕事がある。野菜は手間がかかって、手間がかかって。その手間を掛かけねば出来ない野菜。
お父さんはお父さんの仕事。私は私の仕事、全部、最後まで自分でやり終える。誰も頼れないから、自分しかなかったから。
だから、頑張った。腕ももげそう。膝も壊れそう。でも、続けるしかない。耐えるしかない。誰がやってくれるの。誰が手伝ってくれるの。誰もいないじゃない。自分がやるしかないのよ」
「そんな無理が祟って。無理に無理を重ねて、とうとう薬でもこらえきれなくなって一年おきに手術を続けて、人工骨を手足に入れて私はロボット。
ロボット人間。でも、また働き続けねばならない。農業を、甘く見ないで。苛酷なのよ。残酷なのよ。
お父さんは、農家の後継ぎだから農業は好き。でも、私は嫌い、大嫌い。でもやらねばならなかった。好きにならねばならなかった。奥さんとして。
でもでも、こんなつらい農業なんか、子供には継がせたくない。同じ思いをさせたくない。だから教育を受けさせ、町に出してやった。隣近所のみんなも同じ思いでそうしている。
来生は、絶対農業なんかやるものか。こんなつらい仕事の農家の嫁さんに、二度と来るものか、と思っている」
寺島さんとは、もう30年以上のお付き合い。農家で一番長い。一番お世話になっている。仁木のハウスも、小別沢のハウスも寺島さんから頂いた。何かというと、すぐ寺島さん。
34年も前、自然食品の商売を始めた頃のことだ。市場に出入りし始めて、右も左も分からない頃、札果のトマトのセリ場で、どうしても惹かれてしまうトマトがあった。
家内と二人で0―1テストしても一番。毎日のように仕入れて、毎日売った。そのほかにも、胡瓜も西瓜も、カボチャも、そして米も、すべて良くて、美味しかった。
すぐに栗山町日ノ出に訊ねて、交流が始まった。子供を連れて直接仕入れにも行った。
寺島さんは、まほろばの基礎を作って下さった農家さんの大切な一人だった。奥さんは、口では嫌いと言っているけど、本当は農業大好き! 野菜大好きなのだ。でも、この体を見ると、恨めしくなる。
この辛さが、農業大嫌いと言わせた。それが、悲しい、それが、とても辛い。
三、農業の現状
「今年、南瓜10㎏1箱、400円だよ。大根30円。トマトも、胡瓜も、キャベツ白菜、ジャガイモも何もかもメタメタ安くて安くて、どうするの。カボチャの種なんか高いのよ。種代にもならないんだから。私たちを殺す気! 潰す気!
消費者は安い、安いって大喜びかもしれないけど、こっちは地獄。どうやって生活するのよ。どうやって歳を超すのよ。日雇いさん、雇うにも1日1万なんぼ。雇うに雇えないから、自分で身を粉にして働くしかないから。
都会の消費者は、簡単に安心、安全って求めるけど、それに答えるのにどれだけ辛い思いをしなければならないか、知っている! 言う割には、求めるだけで、最後安い方に流れるでしょ」
ポラン広場の故笛木代表が言っていたが、「農業を会社組織で、給料制でやっていったら、絶対やっていけない、採算しない。朝早く夜遅い農作業で、時給なんぼは、絶対潰れる!!」
本当に、そうだった。農業の赤字は、ほとんどが人件費なのだ。
21年間の小別沢農場で、それを痛いほど体験した。
今年まほろば農園では珍しくも、大好評の南瓜。美味しい、美味しいと言ってくれる。本当に嬉しい、有りがたい。
でも、本当は2倍の値段で売られなければ採算が取れない。しかし、値を下げねば、捌けない。店の裏側では、そういう厳しい現実がある。そうやっていることが皆徒労に見える。無駄骨のようだ。
作っても作っても赤字。売っても売っても赤字。それを24年も続けて来た。我がことながら、多くの農家がこの呻吟に喘いでいる苦しみ悲しみを共有し共感する。
もし、これがまほろばの店が無くて市場流通だったら、形がいびつ過ぎて、不揃い過ぎて、叩かれて叩かれて継続出来ないだろう。
それが、形が崩れていようが、虫食いがあろうが、泥が付いていようが、有機のマークが貼って無くても、まほろばのお客さんは信じて買って下さる。求めて下さる。
本当に本当に、アリガタくって、アリガタくって。そういうお客さまがいらっしゃればこそ、まほろば農園はここまで存続出来たのだ。
言うなれば、共同作業、共同運命体のようなもの。感謝したい。しかし、寺島さんは違う。
30年以上、市場に出入りして思うことは、高値で農家の人が喜ぶのは一年中でせいぜい続いて一週間、他は買い叩かれるのが常なのだ。
慢性的な安値維持が続く。それでも我慢して我慢して出荷し続けねばならないのだ。
一日も休みなく働いて、これなんだ。これが日本農業の現状なんだ。
四、釘を刺される
「水田を作りたい? トンデモナイ。1反でも、どれだけの手間と機械が、いるか知ってるの。
田植え機、除草機、刈り取り機、脱穀機、乾燥機。これだけ揃えるのに、どれだけお金がかかると思ってんの?
これだけ揃えて、どれだけ作るの?
どれだけ、作れる時間があるの? 米は、買った方が良いの。馬鹿なこと考えるんでない!」
今でも、野菜だけで手一杯。そこに果物を増やしたらどうなるの。
さらに米なんか、どうして管理するの? と怒られている。もう、どこも冬仕舞いというのに、まだまだそこまで至らない。あのへうげ味噌の豆さえ、穫り終わってない。
重労働に物書きが加わって、今までになく堪える。残された時間は、本当にわずかだ。つくづく、田舎生活の方がしんどいかもしれない。
五、台風18号
「農業は、天災もあるのよ。都会の人は、会社や家で籠ればいいけど、農家は作物を守らなければならない。全身で抱えなければならない。
米が倒れれば、起こさねばならない。自然から、農家は逃げれないのよ。暑くても、サブくても、雨でも、槍でも、作物と一緒になって、前に立たなければならないのよ。あなた、出来る!」
9月、日本列島を駆け抜けた台風18号。大被害の予告も台風一過、事なきを得て、ホッと胸を撫で下ろした。
昨年は、十勝道東地方は甚大な被害を被った。北竜町の川本さんも早い雪害で、大豆が埋もれた惨事も記憶に新しい。
そんな時、会社に電話すると、この寺島さんの田圃が水に浸かって新米がすべて倒伏、ついでに納屋の屋根も飛び、籾倉に水が入り乾燥機もダメ、脱穀機も浸水で回らなくなったとの悲報が飛び込んで来た。
丁度、台風の目の外枠が町の継立、日の出地区の山間のみに当たって大暴れしたというのだ。
隣接の街中や夕張は大丈夫だというのに。今季、寺島さんの新米を食すことが出来なかった。
例年になく美味しいというのが皮肉だった。それは、残念でなく、辛いのだ。2年の素人と60年の玄人との違いはあるものの、自然の痛手が、店に居た頃よりも切なく、身に染みるのだ。
六、寄る歳波
「体が取り返しのつかなくなる前に止めなさい」と、言われる。
「残りの人生のためにも止めなさい」と、言われる。「もう、手を広げるんじゃない」と、言われる。
これは、偽らざる本音。体の芯から出た言葉なんだ。
酷使しなければ、営農は進まない。寄る年波には勝てず、老いは残酷にも耐えられなくなる。
一人減り三人減り、五軒から二軒に、十村から一村に減り続ける日本の農家農村。幸せでない農業、明るくない未来。限度を超えた労働が、体を蝕んで行く。食べて行かれない、先行きの無い先に、心を暗く閉ざしてしまう。
大橋本店店長に、私たちの仁木就農を「絶対、反対!!」と止められた。が、それは、彼の本音から出た言葉だと知っていた。
彼が、本稿にも自ら書いていたので許されるだろうから書くが、一家心中するほどの地獄の苦しみから這い出た体験があっての懇願の言葉だった。
それは、美唄でも有数の大農家一族だった。兄さんも姉さんも嫁さんも農家。お父さんは全国を回って指導する篤農家でもあった。支える農家農民も多かった。
それでも、プロでも、離散するほどの困難が営農の行く手には立ちはだかっていたのだ。辛くても、町場で安定した暮らしの方が、よっぽど良いと、多くの農家なら当然、そう思うだろう。
若者が、農業を志す。最近、頓に多くなったという。それは、良いこと、手放しで喜ぶべきこと。
だが、それが有機であろうが、自然農であろうが、慣行であろうが、厳しい現実に、挫折して行く新規就農者がいかに多いことか。
3年以内の離農率は75%、4人に1人残るだけ。最後には、10人に1人しか残っていない。食べていけない生活から抜け出せなくて、離農を決心するのに時間はかからない。
法人就職就農も例外でないという。少子高齢化の現在未来、誰がこれからの人たちの口を満たすのか、国民の腹を満たすのか。
今、農業従事者の平均年齢が、66、7歳という。丁度私の年ではないか。いかに後期高齢者の老人が日本農業を支えているか。
これは、80歳までの10年と、20歳からの50年が同じ人数と言うことだ。
簡単にイメージすると、年寄りが5人に、若造が1人の構成で日本を支えている。このままでは、国は持たない。まだまだ、若者が少な過ぎる。足らな過ぎる。
七、やりたいんだら、自給自足で!
「70になったから、もうダメ。もう体が、言うことを効かないのよ。お父さんも、73。もう何年やれるか。まほろばさんも、止めるんなら今、諦めるんなら今よ。それでも、やりたいんだら、自給自足で、自分たちの分だけでやんなさい!」
そうなのだ。自分たちの食い扶持だけを作る…それは気楽で愉しいはず。農業の原点は、自給自足だった。
そして、余った物を交換し合って生活していた。それが何時しか、現金収入を得るため、過重労働が強いられるようになった。
商業化・工業化によって農業者が都会に吸収され、食べ物を生産しない消費する人々だけが増え続けた。
都市と農村の分離である。農家もまた、都会人によって生産された商品を買うため、より多くの現金収入を必要とし、効率的な農業が求められるようになった。
百種の物を作るから百姓と言うそうだが、単作農家が増え、家族の食品を買うように、肥料も農薬も勿論のこと、種子さえも買うようになった。
機械による利便効率化は、より多くの現金化が必要になって来る。その終りの見えない堂々巡りのループに嵌って喘いでいる。
私たちも、仁木に住むようになって、自然食品店を営みながらも、いつの間にか自分たちの生活が、いかに文明化ナイズされて来ていたかということに気付かされている。
手仕事の手を知らない。生きる知恵がない、経験がない。無い無い尽くしなのだ。どんなにか無能なことか。
そして、人が幸せに生きていくために必要な物がいかに多くないか、ということにも気付かされている。わずかの物で、事足りる。
こんなにも満たされる自分が居ること、自然が在ることに。
ブータンチリを作りながら、ブータンにも思いを馳せている。
さりとて、全く昔に返ることが、自由で楽しいとも思えない。
耕作面積に応じた機械化は必要だと思う。まほろばで販売する量の野菜を作るには、手作業では無理がある。
小別沢時代よりも、カルチ(除草機)や、種蒔き機、苗植え機など増やしている。
私たちは、「小国寡民」の社是の許もと、オリジナル商品の開発や直営農場、パン工房や農産物加工など、まほろばグループ全体の緩やかな自給を目指して来た。
現代資本主義社会の中で、自分たちの力量に応じた可能な限りの自給を追求して来た。それは思いのほか楽しいことで、これからも農業以外の異分野でも続けて行きたい。
しかし、最終的には、健康的で環境に優しい地域社会が、呼びかけて作るのではなく、徒党を組むこともなく、自然発生的に、有機的に知らぬ間に、網の目のように出来て行ければいいなと思っている。
老子が説くように、無為にして化さねば、道とは言えないのだろう。その為には、自分たちが、農業者として確りした生活と経済基盤を立てること、つまり、独りで立つ「自立」が、必要なのだ。
八、最後に
寺島さんに、反対されながら、実は試されながら、鼓舞応援されながら、我が道を進むしかない。道なき道を歩むしかない。
寺島さんに怒られながらも、諦めない、しょげない自分がいる。へこたれない自分たちがいる。
試されている。
がんばります。
気持ちの上でも、一緒にがんばらせてください。
恐らく、人生終えるまで。
それは、私たちの生き方だから。
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宮下周平
1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。
自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/
無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。
世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。
産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。
現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。