札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム
生来という事
家内と近い歳で、同名(異訓)で、隣同士の県で…というバレリーナの森下洋子さんの事。
生一本(きいっぽん)という所が似ているな、と思いつつ、彼女の回想記、小学生時代の修行のつれづれに驚いて、つい一文を綴りたくなってしまった。
小学校入学の65年も前の話。
同級生に山口〇〇ちゃんという、パーマ屋さんの娘さんがいた。
目のクリッとした、髪を後ろ手に結んだ、田舎町に相応しくないハイカラな身成(みなり)であった。
その子が、バレエを習っているというのだ。
なるほど、バレエをすると、こういう風になるんだと一目(いちもく)置き乍(なが)ら、子供心にも妙に納得していたのかもしれない。
あの片田舎に教室があるとは思えず、今思えば札幌か千歳にでも習いに通っていたのであろうか。
当時、姉が読んでいた少女雑誌は、必ず松島トモ子さんが表紙を飾っていた。
それと共に、よく少女バレリーナの森下洋子さんが出ていた記憶がある。
おそらく、〇〇ちゃんも、森下さんやバレエ漫画の影響で、憧れてバレリーナの道に進んでいたのだろう。
ちなみに何故、私が柄(がら)にもないバレエなんぞの文を綴るかは、キット中学生の自分が、最初に買ったDECCA(デッカ)の輸入盤レコード、カラヤン指揮の「チャイコフスキー/三大バレエ組曲」に、あったのかもしれない。
その曲と音質の美しさに、それは擦り切れるほど何度も何度も針を落していたからだ。
その森下さんは、戦後の年に、家族が被爆した広島生まれ、生来虚弱だったが、バレエで蘇り、そこから今日まで75年、ほぼ70年間踊り続けておられる。
今でもプリマドンナを演じるというから、この道一筋という稀少な人生を歩まれていらっしゃることに感動するばかりである。
これは月並みに、非凡である、天才であると一言で括(くく)れない話で、並大抵のことでは片付けられないことであろう。
歌舞伎・能などの伝統芸能、ピアノ・バイオリンのような西洋音楽など幼少期から最期まで生涯現役で活躍される方は多いが、バレエで70歳を超えた「只今現役中!」は、古今に聞いたことがない。
肉体的に、まず耐えられるのか、という疑問があるのだが、それを物の見事に覆してくれる日々の精進と心の鍛錬は、それは、徒(あだ)や疎(おろそ)かに素人の私が語られるものではないのだろう。
今、読売新聞で、彼女の一代記が連載されているが、最も目を惹かれたのが、小学校時代。
自立して東京で橘(たちばな)秋子先生の元での日常生活が、とても小さい子が耐えられる修行でない日々を、易々と超えていた所だ。
やはり天性の踊り子、生来持って生まれた天命というか宿命というか、背負っていらしたのだと、思われるのである。
将来一流の指導者になる為に、キチンとお茶お花を始め日本の伝統芸能も学び、炊事洗濯から小笠原の礼法や佛道修行の座禅や滝行の荒行にも果敢に耐え、基本を徹底的に鍛えられたというから、並外れた天分の余白を宿していたのだろう。
華奢な女の子が、毎日過酷な修行に耐えて行かれる様子は、尋常一様な只事ではないように思われた。
「好きこそものの上手なれ」と言われるように、本当に根っから好きなのだろう。
堪えるというより、稽古が心から楽しめたに違いない。
それは、既に生まれながらに知っている、もし前世というものがあるなら、それを既に踏襲して来たとしか言えない境地だ。
人は、この根っから好きというものに、なかなか巡り合わないから、幾生を重ね、人生逡巡(しゅんじゅん)してしまうのだろう。
100年に一人のバレリーナと言われたシルヴィ・ギエムが躍った「ボレロ」などの制作監督のモーリス・ベジャールが、渡欧した若き森下さんを主役に抜擢したく誘ったというが、これを事も無げに断ったというから、スゴイ。即決断できることに驚嘆した。
普通なら、躊躇なく飛び付くだろう。だが、彼女は本格的正道をまっすぐ進みたいとの志があった。
それが当代随一の前衛振付師の誘いにも乗らない、という信念には圧倒されるのだ。同じく欧州の各バレエ団からの誘いにも振り向かなかった。
この浮付(うわつ)かない視線の先で、彼女をしてこうも長く現役で続けられるのは、生きる芯というものが、そう温存させたのであろう。
30年は30年、50年は50年、70年は70年でしか得られない何かしらの経験則があるはずである。
先日往かれた書家の篠田桃紅女史は108歳で、その歳でしか語れない人生観は、年の功でしか得られない未聞の尊いものだった。
歌人・會津八一の詩を取り上げ、 天地にわれ一人いて立つごとき この寂しさを君は微笑む
「人は結局孤獨。一人。」
だが、百歳を超えられると、誰かがこう言ったああ言ったという比する古人も居なく、ありのままに生きたいように生きて来られて、
「「成熟」なんて、退屈よ!」と、式部も兼好も語り得ない正直な独白が、却って新鮮で、味わい深かった。
ちなみに、ギエムは2015年の50歳で、39年のバレエ人生に終止符を打った。
ロイヤルバレエ団のプリンシパル・吉田都さんは19年引退、45年の現役生活だった。
そういえば身近に、幼少からバレエにのめり込んだ知人の娘さんが居た。
留学経験もなく、名バレエ団に入った訳でもなく、何のコネもなく天下の熊川哲也さんに認められ、K‐BALLET COMPANYに入団した。
そして「ロミオとジュリエット」などのプリマの座を射止めた彼女のバレエへの情熱というものが凄まじく半端でないことを、親御さんから聞き及んでいた。
それは尋常の好きさ加減ではないのだ。
「止(や)めっちまえ!」と父親が怒鳴(どな)り、「バレエでは食えない!!」と本気で行く手を邪魔しても邪魔しても、続ける信念と行動力にはホトホト閉口したと語っていた。
それは、一言、娘さんの生来持った周囲を照らす明るさであったという。
彼女は、今大成への道を歩んでいる。
森下劇場は、さらに続く。
完結せず、連載はまだ続いているのだが、潔く最初のわずかの章での感想で止む。
それだけでも、十分過ぎるほど、彼女を語ったことになるだろう。
ルドルフ・ヌレエフとのコンビ、バレエの女王マーゴ・フォンテインとの世界ツアーなど、世界超一流との付き合いは、更に森下さんの人間性の幅を広げるに約束された出会いであった。
世界バレエの名華、名師と肩を並べて踊る、付き合う、語らうことの実力を、遺憾なく発揮された。
あの70年代激動の文化大革命時に、誰もが聞き覚えのあるテーマ曲「北風吹(ベイフォンチュイ)」の革命劇「白(はく)毛女(もうじょ)」を中国各地で踊り、毛沢東・周恩来や中国人民に熱狂的に迎えられたニュースは懐かしくもある。
バレエ中国公演のその71、2年に、私は日本での琴の修学を終え、古琴(こきん)を抱えて大陸に渡ろうとした。
だが、当時荒れ狂う四人組の暴政、「批林批孔」のスローガンで、紅衛兵により伝統文物は破壊の限りを尽くされ、孔子の愛する琴学は以ての外、糾弾の対象、聖都曲阜の孔子廟は瓦礫(がれき)の山となった。
泣いて断腸の思いで諦めざるを得なかった。
同じ芸術でも、古典と共産思想によって分断される不条理を目の当たりにして、若造は胸の内に収めた。
今にして思えば、それで良かったのかもしれない。
だが、60年を経て、「孔子学院」と称して世界に、党の覇権を強いる矛盾と偽善は、許されることではない。
至聖孔子も、名を利されて、天で啼(な)いている事であろう。「義を失うもの、遂に滅ぶ」と。後継者・孟子は述べた。
*「仁は人の心なり。義は人の路(みち)なり。其の路を舎(す)てて由らず、其の心を放ちて求むるを知らず。哀しいかな……」と。
今更ながら、バレエ公演が反日プロパガンダの政治利用に一役買ったと言えばそれまでだが、何事もなかったかのように、芸術は時代と国境と思想を超然と越えていた、とも言えるのだろう。
そして、華やかな表舞台の裏には、それは地獄のような鍛錬があるのであろう。
これが森下さんのものであるか、定かではないが、トウ・シューズに支えられた隠れた足先は、最早常人の足ではない。
この肉が削(そ)げている骨皮の芯で、体を支えて、動きを造っているという極限の錬磨が、如何なるものか、少なからず我が心を抉(えぐ)るかのような衝撃を与えられた。
「芸術への精進とは、かくの如きか!」と、吾が身の至らなさを恥じるばかりである。
人それぞれの人生劇場は、一幕のバレエの舞台でもあった。
(2021・6・20)
*「仁(思いやり)は人が誰もが持っている心である。義は人の生きる道である。ところが人は、その道(義)を捨てて従わず、その良心(仁)を見失っても探し求めない。嘆かわしいことだ。」
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宮下周平
1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。
自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/
無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。
世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。
産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。
現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。