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~青春回想断片記1~「引き寄せ」「シンクロ」の不思議【三皇五帝の堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)の禅譲】

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札幌の自然食品店「まほろば」主人 宮下周平 連載コラム

一、コトの発端

七月「令和の改新」を発表して、仁木農園でお客様とスタッフで第一回の「交流慰安会」を開いた24日。

援農や畑ヨガのあとの食事会、午後から、役場の文化センターで、私の講話とセレモニー、お楽しみ会を開いた。

約1時間半の話を用意していたが、直前に「25分にしてください」と進行係から指示があった。

30分でなくて、25分という微妙な設定に、余程綿密な計画であろうと、2/3カット、ことごとく内容を切り詰めて、早口でしゃべることにした。が、果たしてそんなに時間が詰められるだろうか、と甚だ憂慮(ゆうりょ)した。

兎(と)に角(かく)、毎日が土との格闘で、人と話す機会が激減して、口が回らない、頭が回らない、要するに悪い滑舌(かつぜつ)がさらに衰えている。

ところが、蓋(ふた)を開けてみると、早過ぎたのかどうか分からないが、時間が余り、家内の「食養の話」のオマケまで付いて、結局は〈良かった、良かった〉と相成った次第。

二、山寺女史からの連絡

その数日後、古琴(こきん)研究家の山寺美紀子女史からメールが届いた。

そこに、中国の『琴府』【1971年発行】という大辞典の3冊の大著に、私のことが書かれている、と言うのだ。

琴人として、中国名がズラリと並んでいる中に、私の日本名が記載され、「20歳」とある。

忘れていた東京の住所が二つと「……「湘(しょう)江怨(こうえん)」を最初に学んだ」とまで書かれ、さらに東京大学云々(うんぬん)とあって、更に驚いたのだった。

驚愕したのはそれだけではない。

50年間忘れていた記憶が俄(にわ)かに蘇(よみがえ)り、先の講話で、時間の短縮がなければ、舜帝の件(くだり)、この「湘江怨」の曲をお聞かせするはずだったからだ。

何故蘇ったかも不思議なのだが、それがこのように数日を待たずして、人から同じことを教えられるなんて・・・「引き寄せ」「シンクロ」の不思議としか言いようがない。何が起こるであろうか。

三、舜帝の事

当日は、「承継について」の話だった。

その一つが、三皇五帝の堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)の禅譲である。

舜帝と言えば「南面して五弦の琴を弾じ、天下治まる」という古典の言い伝えがあり、南方に向かって、南風の歌を琴で弾いているだけで、国が治まるといった無為徳化の政治がなされていたという。

それで、まほろば本店の社長室の座は「無限心(ハート)」で南面するように設計したのだった。

堯帝が、舜帝に国譲りをするのに、親孝行で知られる舜を召し抱え、我が娘二人を嫁がせ、果たして家を治められるか、試したのである。

同じ家に嫁さんが二人。うまく行く訳がない。

嫉妬が渦巻き、家庭内騒動は必至である。

ところが、舜はどう手懐(てなず)けたか、二人は仲良く、等しく舜を慕って丸く治まったではないか。通常では「ありえへん」話である。

これを堯帝が見聞きして、この徳力で、国をも治められると見込み、委譲したのである。そして、よき時世が続いた。

しかし、時が流れ、舜が身罷(みまか)って、二人の夫人は悲しみの余り、湘(しょう)江(こう)に入水(じゅすい)、身を投げたというのだ。

その舜と夫人の悲しい曲がこの「湘江怨」で、全く記憶の外にあったのが、何故か蘇(よみがえ)って紹介しようとしたのだ。

初心者用の曲なので、簡単なのだが、訥々(とつとつ)とした素朴な風雅がある。

四、禹帝のこと

ついでに、この三帝について話すと、こうである。

舜帝の当時、揚子江が氾濫して大洪水が、民を苦しめたこと長く続いた。

そこで治水の命を鯀(こん)という者が受けたが失敗し、無残にも流刑(るけい)されたのだ。

いみじくもその子・禹は父の志を継いで、治水の大工事に、取り組んだのだ。

20年間、家の前を通るも一度たりとも、門に入ることはなかった、という。

正に我身を顧みず、命懸けの仕事であった。遂には見事な統率力で海のような大河を鎮めたのであった。

舜帝は、これを観て禹に帝位を譲った。正に「怨みを、恩を以て返した」のである。

常人には到底、出来ないことである。しかして、名君となり、易々と世を治めた。

五、堯帝のことから

話が逆になったが最初の帝(みかど)、堯の世は、

日出(い)でて作(な)し、日入りて息(いこ)う

井を鑿(ほ)りて飲み 田を耕して食(く)らふ

帝力我に何かあらんや

いわゆる「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」の天下泰平の世で、民衆は腹を出して地を撃(たた)き、帝王の存在を「そんな者、知らん知らん!」と言って河で耳を洗うほど、穢れや上下争いの無い平和な古き世であった。

高き屋に登りて見れば煙立つ
民のかまどはにぎはひにけり

と、仁徳天皇の御徳を慕った歌を思い出す。共に遠く、民への思いが溢れていた。

この三代を以て、中国の礎が築かれたように思うのだが。

何せ、伝説上の人物で詳しい事跡もない。しかし、このことからも物事や人徳の完成には、三つの要素が働いているような気がしてならない。

それは偏(ひとえ)に、「知・情・意」の調和と安定である。

六、「知・情・意」円満へ

堯帝は知の人、舜帝は情の人、禹帝は意の人。

いかにも、この三人の特徴は、伝説から彷彿として思い出され、教えられる。知は智慧であり、情は人情であり、意は意志である。

堯帝は、無為自然という道で、様々な国の制度を作り骨格を為し、神の世とまで称えられた。

舜帝は、細やかな人情機微に通じ、人々を慈しみ、また慕われた。

禹帝は、鋼(はがね)のような意志を以て難関に立ち向かって突破し、棲みよき世に斉えた。

これを、日本に置き換えてみれば、武士の乱世から一国の泰平に導いた信長・秀吉・家康の三代を思い起す。

それまでの乱世に風穴を開けた天衣無縫の信長は「天下布武(ふぶ)」の意志で駆け抜けた。

そこに、「楽市楽座」に見られる楽しき世を、秀吉の情を以て共感を得た。

そして、「天下泰平」300年にも及ぶ争いごとのない江戸時代を家康の知は導いた。

ちなみに、家康は日に六万遍の念仏を唱えていたというから、自然や神仏との一体感で、余程物事の奥と言うか、全体大局がアリアリと観えていたであろう。

それほどの器量や眼力がなければ日本の統治が叶うべくもない。

人においても、この知情意円満が、大成の鍵を握っている。

これが、思いもかけぬ「湘江怨」の曲から引き出された交流会の話の一部であったはずだが。先の「青春回想の記」、引き寄せ事件に戻したい。

七、中川のこと

『琴府』に、東京の住所まで記載されていたのには、些(いささ)か驚いた。

そこに、中川公夫と記されている。高校の友人で、最初、上京した時、しばしの間、居候(いそうろう)していた。

実は、札幌南高時代、仲間4人で「芸林」というアート倶楽部(くらぶ)を作って、好き勝手をやっていた。

稲村が詩を、水落が画を、中川が舞踏を、私が音楽を担当。

学園祭に前衛劇を催そうとSTVのスタジオとミキサー室を一晩借り切って、ミュージック・コンクレート(具体音楽)というテープ音楽を作るために録音と編集を徹夜でやり、次の日学校から呼び出され、大目玉を食らったのだ。(STVもよく高校生に学校の許可なく無償で貸してくれたものである)

その頃、大学紛争で世の中は大荒れで、南高でも芸術科目が廃止されるというので、ビラを配り、ストを決行したりして校内で学校側と対立、学内紛争が起こった。

北海道の高校で初の学園闘争。それで、学業にも身が入らず、毎日4人でああでもない、こうでもないと様々なことを夜を徹して話し合ったものだった。

そんな状況で、「僕は進学しない!」と宣言して、奈良に旅立ったのだが、その後、稲村は精神科医の医院長、水落は初志を貫徹して版画家に、でも5年前早逝してしまった。

中川は早稲田の露文を出て外交官に、そしてゴルバチョフ大統領の通訳にまで駆け上り、惜しくもアムール川で遊泳中に溺死したのだ。

そんな若き日の自由でアウトサイダー的な仲間と活動のお陰か、全く学問の本業に関わりのない生き方を学ぶというか、歩むような方向を自分で決意し、覚悟する他なかった。これから全部、自分ひとりで責任を取らねばならないということであった。

八、麻生さんのこと

『琴府』に、それともう一つの住所が記載されていた。

麻生正記宅とある。上京してから、古琴を学ぶのだが、一方「岡潔」の思想哲学に大きく傾いていった。

ある日早稲田の講堂で、岡先生の講演会があって参加した。

帰りがけ、先生の主催する「葦芽(あしかび)会」への入会を麻生代表から勧められ、即入会した。

それで、いやに馬が合って、入会どころか、東武練馬の麻生さんのアパートに転居することになった。

隣の麻生さんの部屋に入りびたりで、二人で岡先生のこと、日本のこと、これからの世の中のことを話し合う、毎日飽きもせずに。彼は公務員を辞めてまで、岡潔にのめり込んだのだ。まさに命懸けで、どう食べて行くのであろうか。

市ヶ谷の三島由紀夫割腹事件は、その頃であり、右派・左派が激化していった。

ある年の「建国記念日」に、池袋の公会堂で岡先生の講演会があった。

あの「題名のない音楽会」の黛(まゆずみ)敏郎氏の講話も併せて聞いた。

作曲家・黛さんとは、薬師寺の橋本長老のご紹介で、ご自宅に伺い、スタジオを案内され、現代音楽について、色々なことを教えて頂いた。

講話前、岡先生と胡蘭成(こらんせい)先生がご一緒の控室に、私と麻生さんがご挨拶に入って行ったのだ。

胡蘭成といえば、汪兆銘(おうちょうめい)政府の高官で、歴史上の人物である。

当時、革命の大舞台で毛沢東(もうたくとう)と蒋介石(しょうかいせき)に追われ、日本に亡命していた。

胡先生は、筑波山で「斯道会」を主宰され、中国古典や祭政一致の政治学を教えられていた。

世界的な大ヒット映画2007年「ラスト・コーション」のモデルとされている。

岡先生と親友になられ、私たちもその薫陶に預かったのだった。それで毎月山に通った。

この胡先生の一言で、その後10年の私の道が決定するのだが、それが余りにも劇的過ぎるので、人生最後にお話ししたい。

その日、控室でお二人の先生がお話する中、麻生代表に、矢庭(やにわ)に岡先生が「君、無分別が分かるか?」と問われた。

彼は、黙っていたが、先生が彼の眼を観て「分かるんかもしれんナー」と、言われた。

その頃、私は、古琴の張先生の近く、世田谷区下馬に引っ越して、毎日通うようになり、麻生さんとは疎遠になっていた。

そうこうするうちに、「葦芽会」がうまく運営されない責任を取って、彼が自死したという知らせが入ったのだ。

ただちに、仲間が集まり追悼会を開こうと言うことになり、私は慰霊に、岡先生のお言葉を戴く為に奈良のご自宅に伺った。

兎に角、先生の彼への一言が欲しかった。彼を供養したかった。

その色紙を、霊前に掲げると、お母さんは涙ながらに「今更貰ったって、息子は戻らない!」と号泣するばかり。しかし、私が出来る唯一の手向(たむ)けだった。

死を遂げるほど、「岡潔即命」の生き方に、只事ではない、人生の一途さを麻生さんから学んだことは、確かであった。

その色紙が先年、数学者・高瀬正仁氏の著書に紹介されていて、ビックリ。二人の死は、心の水底(みなそこ)で今まで納めていた。

九、中国と日本の狭間で

今日まで、中国古琴との経緯(いきさつ)は、何度か書いたので、ここでは略したい。だが、ここに至って、自分の中で、大問題が起こっていた。

東京大学比較音楽学の岸辺茂雄名誉教授の縁故により、香港の中文大学から留学されていた琴師・張世(せい)彬(ひん)師に付き、ご自宅の大学院ゼミに毎週聴講できる幸運に出会った。

世界各国には、様々な民族特有の音曲があり、歌があり、情緒がある。

書斎には、山のように世界の民族音楽の音源資料や書籍があり、自由にコピーや貸し出しをして下さった。

奥様とお嬢様は、山田流の名跡、藤井千代賀師。国内第一級の邦楽家の出入りがあり、尺八の人間国宝・山口五郎師に就いたことも先生の勧めだった。

初めて本格的な日本音楽の本流に接し、その深さと懐かしさ、自己の奥底に眠る日本の魂、本性に目覚めたのだった。

その頃、國立劇場や能楽堂など日本の古典音楽、とりわけ名人の生演奏を聴くことの大切さを教えられ、一層耳目を涵養していった。(時同じくして、今は札幌の㈱新生の三輪高士社長も同世代の慶大生で、バリケードで学内が封鎖され、年間4か月も毎日が休み、学園闘争でテストも休みで、歌舞伎座や國立劇場通いだったらしい。同じ劇場に居たかもしれない。)

そこには、岡先生の言う「情緒」という彩(いろど)り、言うに言われぬ言葉でない、震えるような情感や感性の何たるか、観念でない実体・実感を教わった。

伝統芸能や文学から日本を思考し始めた、我が思想形成にとても大切な至極の時間でもあった。

片や、中国音楽の至宝ともいえる古典琴曲「幽蘭(ゆうらん)」「流水」に魅入られ、これを弾きこなすまでになった。が、これを超える音曲は、古今東西に有り得ないと思うものの、果たして、この情操は、真に自分のものとなり得るや、との疑問も起こったのだ。

譬(たと)えれば、バッハに惹かれ、バッハ流の曲を作ったところで、やはり二番煎じ三番煎じなるを禁じ得ず、本当に「お前自身の魂から発した音楽か? 日本人の音楽か?」という問いが理解しやすいだろう。

日本と言う本流と中国と言う別流の狭間で、今度は新たな苦悩が始まったのだ。

これは単に音楽ではない、自己のアイデンティティが、何処に起居しているのか。

これは、人生の問い掛けでもあった。日本と言う国に生まれたこと、人間として生まれたこと。

本当に音楽の才があったなら、この辺りで悩まないのかもしれない。

だが、これがきっかけで自分とは何だろう、どう生きるべきであるか、自問自答して徐々に内面が変わり始めたのだった。

さらに、音曲だけに体重を掛けるのではなく、もっと全体重を掛けるべき大きな世界があるのではないか、見えない世界もあるのではないか、という問い掛けも次々に起こり始めて、本場中国は文化大革命の真っ只中、張先生が香港に帰国されたのを機に、音楽の世界を諦めるようになっていた。

それは思春期の悩み続けた結論であった。きっぱりと今までの積み重ねと訣別していた。

それは、多分に矛盾しているのだが、「幽蘭」を絶賛した岡先生がおっしゃった「他国の情操に穢(けが)されてはならない」という諭しが、余程身に染みていたのだろうと思う。

十、その後の歩み、そして自然食、そして農業

その源を探して、その後の私の歩みは、ほぼ10年間全く別の世界に足を踏み入れることになる。だが、それも観念の中での求道でしかなかった。

しかし、その精神世界を抜けた時に、家内を介して、自然食という、より具体的で、より現実的に生きられる自然を反映した道に出会ったのだ。

理想と現実、観念と物質が、見事に一致した職業に出会った訳だ。

「まほろば」の創業。そこで、ほぼ30年を費やすことになる。

更に、そこに飽き足らず、それら食の源を産み出している大地に帰ることになったのは、僅か3年前だ。何という長旅だったのだろうか。先の逆旅も近いというのに。

長い長い問答と旅路の果てに、今ここがある。

若い人々が、早くより帰農して自然の生活に挑戦しているさまは、羨ましくも、頼もしくもある。

これからの日本の屋台骨を支えるのは、若人しかいない。

君に、未来を託したい。

迷いに迷った大人の私たちを土台にして踏み台にして、

乗り越えてほしい。飛び越えてほしい。

今こそ、大地から、日本の再生を、世界の再建を……。

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宮下周平

1950年、北海道恵庭市生まれ。札幌南高校卒業後、各地に師を訪ね、求道遍歴を続ける。1983年、札幌に自然食品の店「まほろば」を創業。

自然食品店「まほろば」WEBサイト:http://www.mahoroba-jp.net/

無農薬野菜を栽培する自然農園を持ち、セラミック工房を設け、オーガニックカフェとパンエ房も併設。

世界の権威を驚愕させた浄水器「エリクサー」を開発し、その水から世界初の微生物由来の新凝乳酵素を発見。

産学官共同研究により国際特許を取得する。0-1テストを使って多方面にわたる独自の商品開発を続ける。

現在、余市郡仁木町に居を移し、営農に励む毎日。

著書に『倭詩』『續 倭詩』がある。