白川太郎連載コラム【第八回】

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白川太郎連載コラム

次第に熱が頻繁に出るようになり、時には40度を軽く超えていた。

扁桃腺が腫れて声が出にくくなり、幼稚園も休むようになった。

毎日家の天井を見ながら、正岡子規ではないが、子供心に僕はどうなるのだろうと不安だったことは覚えている。

調子が良くなると山を下りて別府の町へ母と出かけ、松本医院に通った当時は観光用に木炭バスが運行され、1日に数本しかバスがない時代だった。

松本先生は九州帝国大学小児科で研鑽された医師で、今はもう他界され、二代目が後を継いでおられるが、髭を生やしてやせた典型的な学者風の方だった。

当時は今のように検査法も満足になく、赤沈と言って長いガラス棒に血液を入れ、棒を立てて、その中の赤い部分の長さを計って炎症の経過を見ていた。

子供心に何をしているのか知りたくて毎回看護婦さんが何をしているか?そばにくっついて見ていてようやくその高さを計っているのに気付いた。

松本先生にそのことを言うと普段は無口で怖い先生が、“そうだよ”と言って頭をなでてくれたのをお覚えている。

さらにその赤い赤血球の上に白い層を見つけこれを先生に聞いても何にも教えてくれなかった。

私は知らなかったが白血球が40000を超えていて、原因不明の異常値を示しており、今でいう白血病を疑われていたと後で母に聞かされた。

松本先生は、当時の最新の文献を取り寄せて治療にあたってくれたとこれも後になって母に聞かされた。

1年の2/3は熱を出して家で寝ているようになり、よく覚えていないが自分はダメかもなと思ったこともあった。

当時は航空便はなく、すべて船便なので、1か月以上かけて届く論文を見ていろいろ薬を取り寄せて試してくれたそうである。

その苦闘のかいあってか、3年の戦いの後、ある程度の回復をみた。

母は毎日私のそばで本を読んでは二人で過ごすのが常だった。松本先生からある日呼ばれ、もう大丈夫と告げられたのだが、自分が何を患い、何をしてもらったのか、どうして助かったのか全く分からないし、覚えていない。

我が家にそれなりの貯えがあり、松本先生という名医が自分のそばに九大から帰ってきたことを今となっては感謝するのみである。

大学を卒業して何年もたってから故郷の別府を訪れ、松本医院を覗いてみた。

何十年前と変わらず、ロータリーのある車止め、草のからまるモダンな建物はそのままだった。すでに松本先生はこの世になく息子さんが後を継がれていた。

感謝の気持ちを伝えられなかった自分が悔しくて、花屋に行って医院に手向けた。

この時松本先生のような医師になりたいと真剣に考えたものである。

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白川太郎

1983年京都大学医学部卒業。英国オックスフォード大学医学部留学を経て、2000年京都大学大学院医学研究科教授。

2008年6月 長崎県諫早市にユニバーサルクリニックを開設、院長に就任。2013年東京銀座に、東京中央メディカルクリニックを設立、理事長に就任。

オックスフォード大学留学中にネイチャー、サイエンスなど一流誌へ多数論文を発表し、日本人医学者としてトップクラスの論文引用数を誇る世界的な遺伝子学者である。

現在は、病院から「もはや打つ手なし」と見離された患者たちを死の淵から救う「Ⅲ~Ⅳ期がん治療専門医」として、「免疫治療」「遺伝子治療」「温熱療法」という三つの治療法に、さらに全身状態改善のための「栄養療法」を組み合わせた治療を行なっている。

主な著書に「「がん」の非常識 がんの正体がわかれば末期がんも懼れず」「末期がん、最後まであきらめないで!」などがある。