白川太郎連載コラム【第七回】

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白川太郎連載コラム

では、私たちの牧場生活はどんなだったのだろうか?

何せ私の五歳前後のころであり、今は我々の生活の痕跡もないのであまり覚えていないのだが、かなり“ワイルド”な生活であった。

何せ見渡す限りの牧場で、いるといえば多数の牛だけ。

私はその間を飛び回り、木に登ってはカブトムシやクワガタムシを捕まえ、熊蜂の巣を壊して総攻撃を受けて手足を刺されまくり痛みで寝込んだりした。

蝶々を追っかけて肥溜めに落ち、泳いでくるマムシに真っ青になって夢中で泳いで逃げたりもした。

だから今でも地方の往診に行くとセミの声が聞こえると気が付けば木に登ってセミを捕まえたり、子供たちにカブトムシのいそうな場所を教えたりしている。

あの時の“本能”が目覚めるようである。

また牛舎の中で乳を搾ったり、牛の糞をモップで引き延ばし、父の大きな長靴を履いてその上を滑って転び糞だらけになって遊んでいた。

こう見えても乳搾りは得意であった。

また夜は大きな花火を飛ばしたり、牛乳瓶にガマガエルを入れて爆発させ、避けたおなかを開けて解剖するなどかなり乱暴もした。

要するに“ワイルド”だったのである。

1歳下の妹はというと、当時リカちゃん人形というのが巷ではやっていたようであるが、そんなものはこのド田舎にはないので、靴下に綿を詰め、マジックでへのへのもへじまがいの顔を書いた怪しげなものをリカちゃんに見立てて一人で牧場で遊んでいた。

今の子には想像できない世界であろう。そして自然も厳しかった。

当時の日本は冬は非常に寒く、大分の田舎であった我々の家周辺も大量の巧拙があり、竹スキーで学校へ通うという日々であった。

東日本の方々は九州は温暖な地だと勘違いしているが、九州島は西から東にかけて雲仙、阿曽、由布(九重)という2000mを越える活火山が連なっており、福岡、佐賀、長崎、大分西部、熊本北部は“裏日本”であり、鳥取、島根と同じである。

今でも大分自動車道や湯布院自動車道は3月でも雪で通行止めはめづらしくないのである。

もう1つ当時は台風はほぼすべて九州を通過していた。

私が幼少を過ごした昭和30年代は、伊勢湾、室戸、枕崎など800㎜台の超大型台風が次々と押し寄せ秋は停電、ろうそく、鮭の缶詰でしのぐの繰り返しであった。

強風で雨戸が飛びそうになり父とくぎを打ちつけたり、ロープで牛舎の牛を守ったり苦難の連続であった。

これが私の前半生における最大の危機の前兆だったのだろうか?

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白川太郎

1983年京都大学医学部卒業。英国オックスフォード大学医学部留学を経て、2000年京都大学大学院医学研究科教授。

2008年6月 長崎県諫早市にユニバーサルクリニックを開設、院長に就任。2013年東京銀座に、東京中央メディカルクリニックを設立、理事長に就任。

オックスフォード大学留学中にネイチャー、サイエンスなど一流誌へ多数論文を発表し、日本人医学者としてトップクラスの論文引用数を誇る世界的な遺伝子学者である。

現在は、病院から「もはや打つ手なし」と見離された患者たちを死の淵から救う「Ⅲ~Ⅳ期がん治療専門医」として、「免疫治療」「遺伝子治療」「温熱療法」という三つの治療法に、さらに全身状態改善のための「栄養療法」を組み合わせた治療を行なっている。

主な著書に「「がん」の非常識 がんの正体がわかれば末期がんも懼れず」「末期がん、最後まであきらめないで!」などがある。